…随分と静かだなぁ。屋敷の廊下を歩きながらラグナは思う。
いつも人の気配が絶えない屋敷なので、珍しい。少し緊張しながら襖を開ける。そこに蘭斗がいてくれたので、正直少しほっとした。
「よぉラグナ。来たのか。」
「テメェが呼んだんじゃねぇか。空いてたからいっけどよ。つーか他の連中どこ行った?随分静かじゃねェか。」
「ちっと野暮用でな、今出払ってんだ。」
んで、だな。
少しだけ言葉が途切れる。半開いた唇は閉じられて、に、と蘭斗は笑った。

「俺はしばらく仕事なくてよ。だからしばらく泊まってけよ、ラグナ。」




 愁 暗 



ラグナもしばらく依頼はない。断る理由はなかった。
すっかり勝手知ったる屋敷なので、遠慮なくくつろぐ事ができる。「ふてぶてしーなぁ」なんて笑われたが、そもそも誘ったのは向こうなんだし。
久々に蘭斗とゆっくり過ごせるというのは、魅力的な話だった。

近況や土産話なんかを話したり。
くだらない冗談でふざけたり。
冗談めかして好きなどと嘯いてみたり。
殴られたり。照れられたり。

たいして暇を潰す事もないはずなのに、驚く程退屈しなかった。
ぼーっと肩並べて過ごす時間が、妙に満ち足りた心地にさせて。
…こんな風に過ごせるのは、こいつとだけなんだろうな。
なんて気恥ずかしい事は、死んでも口に出さず。暮れていく日を、縁側から眺めていた。

だけど蘭斗はどうしてか、夜だけつれないのだ。
今までOKだったはずなのに、急にどうしたというのだろう。ちょっぴり強引にがっついて見ても、蘭斗は頑なに抱かれるのを拒む。
そこまで嫌がる蘭斗を見るのは初めてだ。

不思議なことといえば、もう一つ。出払っているという雫達が、いつになっても帰ってこない。
三日目の朝も屋敷は相変わらずしぃんと静か。自分と蘭斗の物音だけで、誰かが戻る音など聞こえもしない。
…さすがに遅くねぇか。そう思って蘭斗に訊いてみたのだけれど
「出払ってんだ。」
そう、笑うだけだった。笑うだけだった。




そうして三日目の、夜。

びくっ、と急に目が醒めた。思わずがばっと上体を起こす。あれ、今なんで俺起きたんだ…。そう思いつつも心臓はばくばく言ってて、眠気は綺麗に吹き飛んでいた。
変な夢でも見たのか?全然覚えてねぇけどよ。
…寝なおすか。と思った矢先、「ラグナ」、と呼ぶ声がした。

ぎく、とラグナがみじろぐ。ふっと顔を上げると思わず叫びそうになった。
蘭斗がいたのだ。真っ正面に、ラグナへ覆いかぶさるように間近にいる。びびらせんなよいつのまに寄ってたんだよ。びっくりした事をごまかすように、ラグナはにやりと笑った。
「…なァにやってんだよ蘭斗ォ。夜這いにでもきたかァ?」
殴られそうな軽口をたたきながら。
…ところが蘭斗は、殴らなかった。動揺もしない。蘭斗はただ静かににぃっと、笑ってみせた。
「…ラグナ。」
きてもいいぜ、今夜。
耳元に寄せられた唇が囁く。妙に、涼しい風が耳を掠めた気がした。
「……蘭斗?」
…なんか、蘭斗の様子おかしくねぇ、か?ラグナの本能がそう告げる。
返事はせずに蘭斗は、薄笑ったまま近づいてくる。

長い青い髪を、だらりと滴らせて。
色のぼけた髪飾りを、ゆぅらり揺らす。
畳み敷きに、ぺた、とてのひらをついては
這いずるように、ずず、とラグナへ近づいた。

唇が触れそうな程近づいた。どく、と重くひとつ鳴る心臓。
ふとラグナはある事に気がついた。
暗くてよく見えてなかったが、蘭斗が近づいたおかげで着物の色が見えるようになる。

蘭斗の着物が白い事に、気がついた。

(――え?)
「なぁ、ラグナ。」
唇が動く。色の薄い唇が。
ひどくゆっくりと蠢いたその唇は、最後ににぃやりと笑みの形に歪んで閉じる。
蘭斗の手が畳から離れた。ラグナの背中をそっと撫でながら、するり、するり、首のある方へゆっくりと登ってくる。這うように、登ってくる。
「きて、いいぜ。だからさ…。」
肩口まできた頃手はまたふらりと離れ。
強張るラグナの頬に。
そっと、触れた。


「一緒に来て、くれねぇか?」


――その手は、死体のようにべちゃりと冷たかったのだ。



がたんっ、とラグナが後ずさる。蘭斗がのしかかっていたはずなのにひどく簡単に後ずされた。羽根ほどの重さも感じないまま。
尚も伸ばされた蘭斗の手を腕で振り払うと。
宙を切った。何の手ごたえもなく。ラグナの腕は宙を切った。
大きく見開いた橙の目。その目に向かって、白い蘭斗の指がずるりと伸びてくる。

「ッうわ、うわあああああああああああああああッッッ!!!!!」

絶叫して後ずさる。がくがく震える足でなんとか立ちあがる。恐怖に押されるようにして、ラグナはだっと駆け出した。
やばい、やばい、やばいやばいやばいやばいやばい!!!
本能が逃げろと喚き叫んだ。逃げろ、逃げろ!あれは絶対やばい。アレは絶対やばい!!
襖にぶつかり障子にぶつかり、月もない暗闇でもがく。もつれる足で転がるようにラグナはひたすら逃げる逃げる。必死で腕を伸ばし触れた先では、がしゃんと花瓶が割れる音がした。
いくら逃げても逃げても逃げても、重い泥水の中でもがいているよう。身体の動きが重くて。まるで遠ざかってる気がしなくて。
なんなんだよ、あれ。
蘭斗の形をしているけれど。俺の知る蘭斗はあんなんじゃない。
なんなんだよ、アレ。
答えを縋るように後ろを睨んでも、"蘭斗"は薄ら笑むばかり。

その足元が、闇に溶けていて。
見えない足。
其れを動かす動作も見せず、足音ひとつたてず、
…すぅ、と。滑るようにこちらへ追う蘭斗を、ラグナは見てしまった。

「…ッひ…!!」
がたぁんッ!勢いよく後ずさったせいで襖を倒してしまった。しかし構っていられない。逃げろ、逃げろ!!
そう思った矢先に、何かに蹴つまづいて転んでしまう。
くっそこんなとこで、と熱くなりかけた頭が一瞬後冷えた。…あれ?今何につまづいた?見渡す限りがらんどうな、無人のこの部屋で。
足元を、見やると。

黒い塊が、落ちていた。

「……え?」
月もない暗闇の中。
色も輪郭も判別しがたい、ごろりと転がる大きな黒い塊。
投げだされた"腕"に気づかなければ。そこに絡まる布に気づかなければ。
ソレが"ダレ"かなんて気づかなかったろうに。


「――――らん、と?」


それが切っ掛けだった。
油に落とした火のように、わっと床へ広がる黒、黒、黒。わっとたちこめる強烈な腐臭。
塊はひとつだけじゃなかった。ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ。
むっつ。
ろくにん。
壁も畳も黒く塗りたくられたような部屋の中…黙して、転がっていた。

(…嘘だろ。)
さすがに死体慣れはしている、とはいえ。くらりと頭がふらついた。
なんでこうなったか。それはさっぱりわからないけれど。
こんな状態に今まで俺が気づかない訳がない。
三日だぞ、三日。その間こんな匂いはしなかったし、勿論血だって見ていない。
『出払ってるんだ。』
嘘だろ、これじゃまるで


この血と死体の海の中で。
目を化かされ、鼻を化かされ、三日間過ごしていたかの、ような。


「……ッ」
…胃酸がこみあげた。やめろ。考えるな。考えるなと念じる程、良く見慣れた青い甚平が網膜を刺す。
よろけた足がもう、使い物にならない。押しつぶされそうな黒の中、薄く透けた白い着物がひらりと揺れた。
「…最初はさ、そんなつもりじゃなかったんだよなぁ。」
気づけばすぐ目の前で、蘭斗が微笑んでいた。
「皆には先に行ってもらってさ。俺は一言だけ、さよならって言いたかったんだ。お前に。」
それだけ。最初は本当に、それだけ。
ひらり。着物が揺れる。蘭斗が一歩分程、近づいた。
「けど、言っちまったんだ。」
『泊まってけよ』、と。
わかっていただろうに。過ごせば過ごす程離れ難くなるだけで。別れが辛くなるだけで。触れ得ぬ身体がやるせなくなるだけで。無い体温が恨めしくなるだけで。
この世に居場所をなくした自分が、
寂しく、淋しく、なるだけで。
「だからさぁ、」
さみしいなら いっしょにいればいい。
ここにいられないなら ツレテイケバイイ。
青白い指をラグナに向けて、ぞろりと伸ばした。ぐにゃりと人ならぬその笑みから、うわずった声が零れ落ちた。
「来てくれよ、ラグナ。俺と、一緒にさ。」
その目をまともに見てしまったラグナは、目を瞠り、逸らし、歯をぐっと軋ませた。
ダメだ。そう、理解ってしまったから。
その目はきっと、もう何も、届かねぇ。

ッッだぁん!
響き渡る銃声。ラグナが撃ったその弾は虚しく壁にめり込んだが。
蘭斗は自分の左胸あたりに手を伸ばし、一瞬、生前のような微笑を見せた。

「いっそ、こうなる前に。」
苦い、苦い微笑。
「こうしてもらえりゃあ、な。」
だが。微笑はあっという間に歪んでしまう。



青白い指が、ラグナの首に伸びた。


fin.