メモ 四章 「ピアノは数学、物理、そしてスポーツ」 ・「血を提供するかわりに、おれはなにを手に入れ  るんだ?」ゴズロフが冷たい声で訊いた。  ケインは一瞬目を閉じた。すぐにでも輸血をは  じめなければナヴァは八九・五三二パーセントの  確立で死ぬだろう。いま巨漢のボディーガード  と問答をしている暇はなかった。ケインはテー  ブルの上からナヴァの拳銃をとりあげ、引き金  を引いた。弾丸はゴズロフの耳をかすめ、背後  の壁に穴を穿(うが)った。つぎに、ケインは  銃口をゴズロフの頭に向けた。  「血を提供すれば、死なずにすむ」 ・きみは正しい道を選ぶ信じられないような才能  を持っている。自分で気づいている以上の能力をね。  自分自身を信じるんだ、ナヴァ。そうすれば、自分  の運命をコントロールできる。 ・この世に不可能なことなんてなにもありませんよ、ミス  ター・ギャヴィン。起こる確率が低いことはあっ  てもね ・地球最後の日に「きょう会ってくれないか」と頼  める唯一の友人。たぶん彼なら「いいよ、何時にす  る?」と答えるだろう ・頭上では、夜の冷たい航海者のように、月が  空を渡っていた。 ・論理的な人が感情的になる  感情的な人が論理的になる ・今日ライト兄弟のレフトに会った ・「ボクはね、たまに自分がどうしようもない、愚かで  矮小な奴ではないか? ものすごく汚い人間  ではないか? なぜだかよく分からないけど、そ  う感じる時があるんだ。そうとしか思えない時が  あるんだ……。でもそんなときは必ず、それ以外  のもの、たとえば世界とか、他の人間の生き方  とかが、全て美しく、すてきなもののように感じ  るんだ。とても、愛しく思えるんだよ……。ボ  クは、それらをもっともっと知りたくて、そのために  旅をしているような気がする」 ・嘘つきの10の特徴  1、嘘をつく、明確な理由を持っている  2、下準備が万端  3、誤解を招く、真実を言う  4、相手のことをよく知っている  5、事実を途中で変えない  6、集中している  7、しぐさに注意している  8、プレッシャーをかけてくる  9、反撃してくる  10、バーゲン(ばれたときの軽減 ・人を騙そうとするテクニック  感情を操って論理的な決断をさせる  自分の感情をコントロールする  チャーミングで魅力的な人間だと思わせる  信用させ、疑いを晴らそうとする  羊の皮をかぶった狼 ・一回くつがえったものは二度とくつがえらない  男キャラで口調も男にする  ↓  ある程度したらポロッと女っぽい発言をする  ↓  そのうち実は女と言う ・人を騙す「6つの原理」  返報性の原理  人は他人に借りを作ると、そのお返しをして、心  の負担を消そうとする心理を持っている。  一貫性の原理  人はひとたび決定を下すと、それを通そうとする。  社会的証明  人は他人の影響を受けやすい。  好意  知人のパーティーなどで、商品を勧められると、  買わないと悪い気がしてしまい、買ってしまう原理。  威厳  人は威厳がある人のいうことに、つい従がう。  希少性  人は「限定」だとか、「残りあとわずか」などと言わ  れると、必要なくても、つい欲しくなる心理。 ・人は「赤、黄色、緑のどれがいい?」と聞か  れると、そのうち一つを選ぶ ・みかけとしぐさと部位ハカイ ・デジタル教科書  インタラクティブ性  リスク回避  一生使える  リアルタイム性  カスタマイズ ・政治家の嘘を見分ける方法がある、やつらは  決まって一つの癖を持っている  ――奴らは嘘をつくとき、唇を動かすんだ ・自己防衛の嘘  精神的な苦痛から逃れるため  周囲錯乱型の嘘  自分の恥ずかしい過去が暴露されそうなとき ・幻想症候群が、発達した人類の精神が新  たに得た能力ではないかという話。量子力学と  の結びつき、可能性がどうとか、波動関数が  どうとか、幾つかのよくわからない専門用語の応  酬があったけれど、彼にとって重要なのはそんな  ことではなかった。 ・「時間が進むから生きていることができます。生きて  いるから死ぬんです。私は死ぬまで、生きていた  いんです」 ・「でも……いつか来る死を怖がって、今をちゃんと生き  られないのは、もっと怖いです。明日に絶望するのが  怖いからって、明日に希望を持たないのだとしたら、  それはきっと生きていないのと一緒です。そんなのは  ダメです。」 ・時間が前に進んで全てを奪っていくのなら、  時間が止まればいいと祈るのではなく……。  その時間の中で、守り通せるものを守り、この手に  掴まなければいけないものを、何がなんでも  掴まなければいけない ・「世界の終わりなんて、……馬鹿じゃないのか。世  界は簡単には終わらないし変わ  らない。僕の生き死になんて世界の存続と関  係ない。僕がどうしようが世界は続いていく。  そういうもんじゃないのか?」 ・私たちの敵は私たちの幻だ。  だから、重要なのは希望を捨てないことだと私は  考えている。 ・V1野の前方、後頭葉から側頭葉にかけてのある  一部を弄ると、今度は見えなくなる、ということはな  くなる。その代わりどうなると思う? 見ている物体  の視覚的な同定が出来なくなるんだ。つまり  机を見ても、コップを、テレビを見てもそれがなんで  あるのか分からなくなるんだ。これを視覚失認  という ・「僕はたったひ一人、君をこの世で見ることが出来る  人間。だから」  どうか君と共にいる力を。  僕の一人ぼっちがこの子の一人ぼっちと合わさって、僕ら  が二人、互いに一人ぼっちじゃなくなりますよう。  「たとえ世界が全て見えなくなっても僕は君と居続  ける」 ・ジョニーはにわかに、死んでしまいたい気分になっている  ことを自覚した。この才能は神が与え給うたもの  だというのなら、それならば神は食い止めなければなら  ない危険な狂人だ。神がグレグ・スティルソンの死  を望むなら、なぜ彼が臍の緒を首に絡ませた  まま産道を降りるようにさせなかったのか? さも  なければ、肉切れが口喉につかえて窒息死す  るとか? さもなければ、ラジオのダイヤルを回して  いる最中に感電死するとか? 川で泳いでい  るとき深みにはまって溺れ死ぬとか? なぜ神は  汚い仕事をジョニー・スミスに肩代わりさせね  ばならないのか? 世界を救うのはなにもぼくの  責務ではないのだ、それは精神異常者向きの仕  事だし、精神異常者以外にあえてそれを試み  る者などいやしない。よし、決めた、グレグ・スティルソ  ンは生かしておこう、そして、神の目に唾を吐きかけて  やろう。 ・彼は本通りを進み、やがてジャクソンの小さな  郵便局の前で立ちどまると、手探りにコートの  ポケットから手紙を取り出した。父親、セーラ、サ  ム・ワイザック、バナーマンへの手紙。アタッシュ・ケ  ースを足のあいだに置き、スマートで小さな煉瓦  造りの建物の前にあるポストの、投函口  の蓋をあけ、一瞬ためらってから手紙を落とし  こんだ。ポストの中で落ちる音、ジャクソンでこの日  投函された間違いなく最初の手紙の音が聞  きとれ、その音が、いかにもすべてが終わったとい  う奇妙な感じを与えた。手紙は投函された、  もはや中止はありえないのだ。 ・ぼくはやった。どうにかして、やり遂げた。どう  してかはわからないが、ぼくはやり遂げたのだ。  通路の果てにはたして何があるのかわから  ないままに、それはいずれ時が明らかかにしてく  れるのを待てばいいと、そう考えて、彼は暗い  クロムの壁が続くあの通路のほうへ漂い流  されていくのにまかせた。話し声の甘美なハミ  ングが薄れて消えた。かすんだ明るさが薄  れて消えた。だが、彼はいまもなおもとのま  まの彼――ジョニー・スミス――だった。  通路にはいろう、と思った。オーケー。  あの通路にはいることができれば、また歩け  るようになるのだと彼は思った。 ・私はね、歴史ってあまり好きじゃない。  だって昔の人がしたことを知っても仕方ないもの。  でもね  本当はもっと面白くても、いいんじゃないかと思うの。  歴史の中には不思議な物語がいっぱいつまってるん  じゃないかって。  歴史を完全に正しく理解することは人間には  不可能なんだ。  こうしている間にも世界のあちらこちらで、てんでば  らばらにいろんなことが起きている。  しかも、全部が有機的に結びついて相互作用  しているときている。  それらを何一つ余すことなく、論(あげつら)うことなんてできる  はずがない。  この一瞬でさえそうなのに、過去の膨大な時  間の中で起こったことならなおさらだ。  それでも、歴史を学ぶことはできる。  人間に与えられた限られた知性の範囲で、歴史  を理解するには二つの方法がある。  一つは面白おかしい物語として理解する方法。  もう一つは自らを導くための科学として理解する方法。  今の君には科学が相応しい。  歴史を学び未来になすことを考えるんだ。 ・人が人であるためには、人の中でいきなければなら  ない。善悪は人々が決める。  人々とともにある者は人々に従わなくてはならない。  もし、人が人であり続けたいのなら。  自分が自分であることと、自分が人であること。  いったい、どちらが大切なことなのかしら?  それは自分で決めること。  自分自身で決めること。 ・プレイヤーはプレイした後にどっと疲れるだろう ・主人公の心の動きを何で表現するか  ジブリは歩き方で表現する ・新米警官がスピード違反の車を捕らえた。  「50キロオーバーですな。免許証を拝見します」  「そんなの持ってないよ。昔っからな」  「なんだって! 無免許運転か……これはあん  たの車なのかね? 車検証を見せてもらおう」  「うんにゃ。盗んだ。車検証ならダッシュボード  ん中にあったな。さっき拳銃をしまった時見た」  「拳銃だって! あんた拳銃を持っているのか?」  「ああ。車の持ち主の女を殺すのに使った」  「な……なんだと!」  「死体はトランクに入れといたよ」  若い警官は真青になって、無線で応援を  呼び寄せた。  30分後、駆けつけたベテランの警官に男は  尋問されていた。  「まず、無免許運転だそうだが」  「免許証は、ここにちゃんとあります」  「……車を盗んで、拳銃がダッシュボード  にあるそうだが」  「とんでもない! ダッシュボードの中は車検証  しかないし、名義も私の免許証と同じでしょ  う?」  「うーむ。トランクに死体があると聞いていたんだ  が」  「そんなバカな! 今トランクを開けますから  見てください……ほら。カラッポじゃありま  せんか」  「おかしいなぁ。新米のやつは、君が無免許  運転で、車の窃盗、拳銃がダッシュボ  ードにあって、死体がトランクにあると言って  きたんだが……」  「とんでもない嘘つきですね。もしかして、  私がスピード違反だとも言ってませんでした  か?」 ・昨日は海へ脚を運んだ  今日は山へ脚を運んだ  明日はどこへ運ぼうか  俺は頭を抱えた ・幼い娘を連れた母親がバスに乗り込ん  だ。  バス代を節約しようと考えた母親は、娘の料  金を払わなかった。  不信に思った運転手が女の子に尋ねた。  「お嬢ちゃん、年はいくつ?」  「5歳半よ」女の子が答えた。  「いつ6歳になるの?」と運転手が重ねて尋ねると、女の子が答えた  「バスを降りたら」 ・飛行機に乗っていた教授が、隣の席  の助手に提案をした。  「退屈しのぎにゲームをしないか? 交代で  質問を出し合って、答えられなければ相手  に罰金を払う。  君の罰金は5ドル。私の罰金は……そう  だな、ハンデとして50ドルでどうかね」  「受けてたちましょう。先生からどうぞ」  「地球から太陽までぼ距離は分かるかね?」  助手は黙って5ドル払った。  「勉強が足りん。約1億500Kmだ。『1天文  単位』でも正解にしたがね。君の番だ」  「では先生、丘に上がるときは3本脚で  降りる時は4本脚のものをご存じですか?」  教授は必死に考えたが解らず、とうとう目的地  に着いてしまったので、50ドル払って尋ねた。  「降参だ……解答を教えてくれ」  助手は黙って5ドル払った。 ・「旦那様、旦那様、起きて下さいませ。睡  眠薬を飲む時間です」 ・ある早朝のこと、母親が息子を起こすため  部屋に入って言った。  「起きなさい、学校へ行く時間ですよ!」  「なんで、お母さん。学校になんか行きたく  ないよ」  「なぜ行きたくないの? 理由を言いなさい!」  「生徒たちは僕のこと嫌ってるし、それに  先生たちまで嫌ってるんだよ!」  「そんなの、理由になってないわよ。さぁ、早く起  きて支度しなさい」  「それじゃぁ僕が学校に行かなきゃなら  ない理由を言ってよ」  「まず、あなたは52歳でしょう。それに校  長先生でしょう!」 ・ある人が息子をどういう職業に就かせたらいいか知り  たいと思い、部屋に一冊の聖書と、一個のリンゴと  一ドル紙幣を置いて、子を閉じ込めた。あとで戻  って、もし子供が聖書を読んでいたら牧師に、  リンゴを食べていたら百姓に、お札を手にして  いたら銀行家にしようという考えであった。  さて、返ってみると、息子は聖書を尻に敷き、お札  をポケットにしまい込み、リンゴを全部たいらげて  しまっていた  そこで結局その人は、息子を政治家にすることにした。 ・世の中には色んな医者がいるが、実際のとこ  ろ以下の4種類に分けられる。  1、開業医は、知識が乏しいので、少しのことしか   出来ない  2、外科医は、知識が乏しいくせいに多くのことをする。  3、内科医は、知識が豊富だが、何もしては   くれない。  4、病理学者は、知識が豊富にあるし、多く   のことをしてくれるが、すべてにおいて遅すぎる。 ・先生「では、あなたがいま6ドル持っていて、お  母さんに2ドルちょうだいと頼んだら、あなたは  いま何ドル持っていることになりますか?」  生徒「6ドルです」  先生「う〜ん、あなたは足し算のことをよく理解してな  いでようね」  生徒「先生は私の母のことをよく理解していないよ  うですね」 ・銭湯に行った。  あがる前にサウナで一汗かくのが俺の日課  だ。  俺が入って1分くらいで男が1人入って来た。  勝負だ。コイツが出るまで俺は出ない。  これも日課だ。  10分経過。相手の男は軽く100キロはありそう  なデブだった。  15分経過。滝のような汗を流してるくせに、  頑張るじゃないか、デブめ。  18分経過。ついにデブが動いた。今にも  倒れそうな程フラフラになりながらサウナを  出ていく。  俺の勝ちだ!! 俺はサウナルームの真ん中で  ガッツポーズをとった。  目を覚ますと俺は見慣れない部屋にいた。  どこかで見たようなオッサンが覗きこんでくる。  番台にいたオッサンだ。オッサンは言った。  「私が点検に行ったら君が倒れてたんだよ。  どうやら熱中症を起こしたらしい」  少し頑張り過ぎたか。オッサンはやれやれと  ばかりに  「君を運ぶのはまったく骨が折れたよ。今度からは  気を付けてくれよ」  俺はオッサンにお礼を言って帰った。ビールでも飲んで寝ることにし  よう ・ある時、父さんが家にロボットを連れてきた。  そのロボットは特別で、ウソをついた人の顔をひっ  ぱたくって言う物騒な代物らしい。  そんなある日……。  僕は学校から帰宅するのがかなり遅くなって  しまった。  すると父がこう尋ねてきた。  「どうしてこんなに遅くなったんだ?」  僕は答えた。  「今日は学校で補習授業があったんだよ」  すると驚いたことに、ロボットが急に飛び上がり、  僕の顔をひっぱたいた。  父が言った。  「いいか、このロボットはウソを感知して、ウソをつ  いた者の顔をひっぱたくのさ。さあ、正直に言い  なさい」  そして父がもう一度聞いてきた。  「どうして遅くなったんだ?」  僕は本当のことを言うことにした。  「映画を見に行ってたんだ?」  父はさらに聞いてきた。  「なんの映画なんだ?」  「十戒だよ」  これに反応して、ロボットがまた僕の顔をひっぱ  たいた。  「ごめんなさい……父さん。実を言うと『Sexクイーン』  ってのを見てたんだ」  「何て低俗な映画を見てるんだ、恥を知れ!  いいか、父さんがお前くらいの頃は、そんな映画  を見たり態度が悪かったことなんて無かったんだぞ」  するとロボットはきつい一発を父に食わせた。  それを聞いていた母が、キッチンから顔を覗か  せるとこう言った。  「さすが親子ね、あなたの子だけあるわ」  母も顔をひっぱたかれた。 ・ジョン:「パパ、ひとつ聞いてもいい?」  パパ :「なんだい」  ジョン:「国の仕組みってどうなってるの?」  パパ :「いい質問だ。よし。うちの家族を例に  とってみよう。パパはお前を稼ぐから“経営  者”だ。ママは家計を管理しているから“政  府”だ。そして、パパとママに面倒を見てもらって  いるお前は“国民”だね。ウチで働いているミニ  ーは“労働者”だ。赤ちゃんは……そう“未来”  だね。国の仕組みってこんな感じだよ」  ジョン:「うーん。よく分からないや。今夜よく考  えてみるよ」  その夜、赤ん坊がおもらしをして、ひどく泣いてい  た。ジョンは両親に知らせようと寝室に行  ったが、ママは熟睡していただけだった。そこで  メイドの部屋に行った彼は、ドアの隙間から  パパとミニーがベットの上で夢中になっている  のも見た。「パパ!」と何度も声をかけたがまっ  たく気づいてもらえない。  しかたなく、ジョンは自分の部屋に戻って寝てしまっ  た。  次の朝……  ジョン:「やっと国の仕組みって分かったんだ」  パパ :「ほう。えらいな。どれ説明してごらん」  ジョン:「ええとね。“経営者”が“労働者”  をやっつけている間、“政府”は眠りこけてい  るんだ。そして“国民”の声は完全に無視され  て、“未来”はクソまみれなんだよ」 ・「このコンピュータを使えば、仕事の量が今まで  の半分ですみますよ」  「素晴らしい! 二台くれ!」 ・昨日、おじいちゃんがボケ防止の本を買って  きた。今日も買ってきた。 ・問:救急病棟に金持ちの急病と貧乏人が同  時に駆け込んできました。  さて、あなたが医者だったら、どちらを先に診  察・治療しますか?  答:病状が重いほうを先に治療すべきである。 ・思春期の繊細さは自分たちの落ち度  を髪の毛ほども認めたがらない。  だが、心の隅に確かにわだかまる疚しさがそ  の日から乗る車両を変えるようになった。  ミサもマユも、もう荷物で乗り物の席を取  っておくようなことはしなくなった。  そしていつの間にか、そんなことは非常識で  みっともないと最初から知ってましたよというよう  な顔をするようになっていた。あの老人に叱  られて初めてしったことだなんてお互い口  にも出さず。 ・「販売機でモラルは売ってへんからなー」 ・「不安になったり、怒ったりするのは動物的だけど」  と言った亡き妻の声が甦る。「原因を追究し  たり、打開策を見つけようとしたり、くよくよ思い  悩んだりするのは、絶対、人間特有のもの  だと思うよ」 ・「幻覚に?み込まれてしまいますよ」 ・「大声で怒鳴る政治家の言うことを、人が聞く  か?」  「政治家の言うことは誰も耳を貸さないんで  すよ」  「本当に困っている人間は、大声を出せない。  だろ」 ・「若いってのか? いいじゃねえか、若くて」島は  そう言った。「未来のない老体が未来を考  えられるか? 未来のことを考えるのはいつだっ  て若い人間なんだよ。政治家にしてみ  ればよ、未来イコール老後でしかねえよ」 ・理屈や理論は不明だが、「それ」が起  きていることは確かだ。電子レンジの理屈を  知らなくても、弁当が温まるのと同じかもし  れない。 ・言葉について、言葉で説明する、というパラ  ドクス ・「でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、  対決していけば世界は変わる」 ・「国家に騙されるな。私は、善と悪につい  て、嘘をつかず国民に説明をする。嘘で  作った橋の向こうに未来はない。こうも言  える。今までの政治家は、国民の意見  や迷信、流行に奉仕してきた。真理に奉  仕してきたのではない。なぜなら、それでは  未来は築けないからだ」 ・嘘よりも、本当のほうが価値があるなんて、  いったい、誰に決められるの。  いまよりも、この先に大事な瞬間があるなんて、  それこそ嘘じゃないって言える? ・「作り事の妖精だから嘘は得意だし」 ・「あたしたちは自由意志を奪っていない。なぜ  かって、ないものを奪うことはできないからね」 ・「俺たちが野球の結果をどう予測しよ  うが、結果自体には影響がない。予測と  結果は独立してるってわけだ。しかし、おま  えが苛めっ子と対決する場合は違う。予  測が結果におおいに影響する。負けると思  えば負けるし、勝てると思えば勝てる」 ・全部、おまえのせいなんだよ。俺がおまえとは別  の人格を持ったきっかけは、おまえが俺に名前  をつけたことだったんだよ。俺を自分とは違う  名前で呼ぶということは、つまりおまえは俺を他者  として認識したということだ。 ・「許すとか許されないとかではないんです。関係  がなくなれば、それはすなわち存在しないので  す。先生が存在しているのは、今わたしと関係  しているからなんです」 ・「観測するものと観測されるものは観測が  始まった瞬間に相互作用し、一体化します。  観測するものと観測されるものの間には区  別がないからです」 ・いくつか、説はある。一つはその音の並びが  聞く者の精神に影響を与えるというものだ。  特定の音が脳に特定の刺激を与える  ことは知られている。これらの音をこの順番に聞  いた時、脳が特殊な状態になるというん  だ。別の説では、これは、我々のすぐ側にい  るが、我々には知覚できない存在への命令の  言葉だという。もう一つ、面白い説もある。  音とはつまり、空気中を伝わる粗密波な  のだ。だから、一つの音に対し、一つの波形パ  ターンが現れる。そのパターン自体が物理  的な現象を引き起こすと言うのだ。 ・そいねセットとひざまくらバリュー ・明けないはずの夜は明けてしまったが、まだ陽  が昇った訳ではない。 ・肉。金属。棘。角。腕。足。指。爪。触手。  触角。体毛。繊毛。羽毛。鱗。剣。槍。  盾。鏡。眼球。。複眼。単眼。羽根。翼。  鰓。被膜。肺。心臓。内臓。血管。  神経。口腔。牙。涎。血液。漿液(しょうえき)。  体液。花弁。雄蘂。雌蘂。(おしべ、めしべ)。茎。  根。葉。 ・冷めても美味しい。食べなさい。 ・犯罪者の動機  一、感情の犯罪(恋愛、怨恨、復讐、優越感、    劣等感、逃避、利他)  二、私欲の犯罪(物欲、遺産問題、自己保全、    秘密保持)  三、異常心理の犯罪(殺人狂、変態心理、    犯罪のための犯罪、迷信による犯罪)  四、信念の犯罪(思想、政治、宗教など信    念にもとづく犯罪、迷信による犯罪) ・「例えば、あれがどこから来るのとか?」  「……とこか、とはまた哲学的な御質問を  なさいますな」  老人は口を歪め、醜いとさえいえる笑顔を  作る。  「囚人殿も『人間がどこから来たか』などお答  えになれませんでしょうか? それと同じようなもの  ではありませんか?」 ・睡眠薬   サイレース        レンドルミン  精神安定剤 レキソタン        デパス ・この春、一番閉鎖病棟の似合う女 ・「頭燃やしただけじゃんよお! 頭燃やしただけ  じゃんよお! 頭燃やしただけじゃんよお!」  いいリズム感だ。録音したい。鉄ちゃんの友達  のDJだったら、これを素材に一日でダンスミュー  ジックに乗せたチリチリ・リミックスバージョンを作  ってくれるだろう。 ・ステンレスだ。この女は銀河の彼方ステン  レス星から「事務口調」をひろめに来たス  テンレス星人だ。彼らの心はクワイエットルーム  のドアと同じ素材で出来上がっているという。 ・親の愛情のむごさ、というものについて、考えこむに  値するチョイスだ。 ・「この国に、生き続けていたいと思う国民が一人  でも残っている限りは続けねばならぬ。た  とえ地獄の劫火で焼かれることになろうとも、  我々は国民に嘘をつき続けねばならない  のだ。それが政治家の使命というものだ」 ・「毎月ジョギングとか、水泳とか、エアロビクスとか  の運動を続けていると、いつの間にかそれが  生きがいになっちゃうんだって」尚美は天井を見  たまましゃべっていた。  「だから運動しないと精神の安定が保てな  くなって、何かのアクシデントで運動ができなく  なると、まるで家族に死なれたような喪失感を  味わうんだって」 ・「人間の脳ってさあ、いざとなったら苦しみから  解き放つ装置が備わっているわけ。それ  がエンドルフィンで、つまり神の情けみたい  なもんだよね。ぼくはまだその経験ないんだ  けど、首を絞められて殺されたとするじゃな  い。そのときは、最初は苦しくても死ぬ間  際になったらエンドルフィンが気持ちよくしてく  れるはずなんだよね」 ・犯罪者の気持ちがわかった気がした。彼ら  は小さな嘘を隠すために、大きな罪を  犯してしまうのだ。 ・「だめだめ、思い立ったときにやらなくちゃ。『その  うち』って言ってやった人はいないんだから」 ・「ううん」あっさり首を振った。「一目で被害者妄想だ  ってわかったよ。でもさ、そういう病って否定して  も始まらないからね。肯定してあげるところ  から治療はスタートするわけ。眠れない人に  眠れって言っても無理でしょ。眠れないなら起き  てればいいって言えば、患者はリラックスするじゃ  ない。結果として眠れる。それと一緒」 ・私たちの「心」の全ては、私たちの脳のニュ  ーロンの発火に伴って起こる「脳内現象」  に過ぎない。 ・だが「知る」ことと「感じる」ことは違うのだ。  現在知られている大脳生理学の実験  的データに基づいて論理的にかんがえれば、  (1)外界にどのよな事物があっても、私の脳     の中のニューロンがそれに対して発火しな     ければ、私の心にはその事物の認識は     生じない。  (2)たとえ外界に事物が存在しなかったとしても、     私の脳の中のニューロンがあるパターンで     発火すれば、そのような事物が見えてしま     う。 ・主観的な見え自体は決っして直接把握で  きず、間接的な証拠から類推するしかな  いのは、例えば被験者に「今は顔が見え  ている」、「今は花瓶が見えている」というよう  に言葉で報告させたとしても同じことで  ある。 ・驚異の仮設の内容は、「あなた」という存  在は、あなたの喜び、悲しみ、あなたの人生  の記憶、あなたの野心、「あなたがあなたで  ある」という個人のアイデンティティ、そして自由  意思までもが、あなたの脳の中の神経細  胞とそれに関連する分子の振る舞いに  過ぎないということである。  ルイス・キャロルの童話の中のアリス風に言え  ば、「あなたはニューロンの塊に過ぎない」  のだ。 ・バーローの「認識のニューロン原理」を現代風  に表現すると、次のようになる。  私たちの認識は、脳の中のニューロンの発火に  よって直接生ずる。  認識に関する限り、発火していないニュー  ロンは、存在していないのと同じである。  私たちの認識の特性は、脳の中のニューロンの  発火の特性によって、そしてそれによってのみ説  明されなければならない。 ・私は、「マッハの原理」のような、相対主義的な  考え方が、脳と心の関係を考える上で有効  であると考えている。そこで、次のような考え方  を基本的な出発点とする。  認識において、あるニューロンの発火が果たす  役割は、そのニューロンと同じ心理的  瞬間に発火している他の全てのニューロンの  発火との関係によって、またそれによってのみ決  定される。単独で存在するニューロンの発火  には意味がない。 ・シナプスの相互作用に有限の物理的時間  がかかっても、それは、心理的時間の中では一  瞬に潰れてしまう。 ・私たち人間をはじめとする生物が住んでいる  世界は、閉ざされた世界ではなく、「外部」  から様々な要素が入り込んでくる、「開か  れた世界」である。私たちの脳は、このような  開かれた世界と結び付き、情報を受け  取り、行為を通して環境に働きかける。  私たちの心は、このような相互作用の連関  のネットワークの部分集合、すなわち、脳の  中のニューロンの活動によって生じる。私たち  の心の中では、まわりにある様々な事象を  表現するクオリアの上に、それぞれのアフォーダ  ンスが貼り付けられている。このようなアフォーダン  ス表現は、私たちが環境に対して有効に  働きかける能力の基礎になる。相互作用の  連関という視点から見れば、ギブソンの言うよ  うに、脳を環境と切り離すことはできな  い。私たちの心は、開かれた環境と切り離  すことはできない。私たちの心は、開かれた環境  との相互作用の連関の海に浮かぶ氷山の  頂のような存在なのである。 ・「どこが治療だ。患者を羽交い締めにして  注射なんか打ちやがって」  「こういう療法もあるの。膿(うみ)は切開して  出した方が早く治るでしょ。値も出るけど」 ・「逆療法は二回までっていうセオリーが精神  医学界にはあるの。これで一日様子を見て  治らないようなら投薬に切り替えるから」 ・「先生。眉間に皺よ寄せて」  「こう?」  どうも決まらない。算数の問題が解けない  小学生に見える。  「じゃあ、目の前のおやつを横取りされたことを  想像して」  「こう?」やった迫力が出た。 ・チック 神経症の症状 ・「なんとかなるんじゃない? 今度、葬儀部  門と墓地販売部門を設立しようと思ってさ。  そうすれば、患者も安心してうちで死ねるじゃん。  あはは」  「伊良部君が言うと、冗談に聞こえない  ね」女医が下唇をむいた。  「あとは輸入車販売も、製薬会社は  断れないだろうし」 ・「ちなみに原因に心当たりは? 強迫神経症  の場合、親の躾が厳し過ぎたっていう説が  一般的だけど」  「伊良部はそう思うのか?」  「ううん。全然」首を振る。頬の肉がプルンと揺  れた。「それって安易すぎるよ」  ほう。達郎は、伊良部が意外と進歩的なのに  感心した。近年は脳研究が進み、特定の  脳内物質の不足が神経症にかかわっているこ  とがわかり始めている。なんでも心的外傷に  原因を求めるのは古い精神医学だ。 ・各科の教授が集まってくる。彼らを見ている  と、大学の医学部がいかに政治的である  かが理解できた。教授選で重要なのは  論文や研究業績ではない。ゴマスリと地  縁血縁、そして先輩教授の研究領域を  荒らさない目配りだ。 ・「典型的なイップスだね」伊良部がうれしそうに  言った。「ゴルフのパッティング・イップスっていうのが  有名だけど、元々はピアニストの指が動かなく  なることを指して言ったそうだから、どんな職  業にもあるわけよ」 ・「だってそうだろう。言わせてもらえば、最初から  できた人間は、自分がどうしてそれができるの  かを考えないんだ。だから一旦歯車が狂うと、  修正に手間取るんだよ。」 ・「先生。ぼくはカウンセリングを受けたいんです  けどね」  「無駄だって。話して治るなら、医者はいらな  いじゃん」 ・「ちゃんとした法則はないようなきがするな  あ。頭で描いたイメージをトレースできるかど  うかでしょ? コントロールって。霊感に近いん  じゃないかなあ」 ・「人間の脳にそんな高度な画像処理ができ  るのか?」三番が異議を唱えた。  「ぼけていないという事自体が錯覚かもしれな  い。そもそも人間の視界はかなりぼけていて  解像度が高いのは視野の中心部の限  られた領域だけなんだ。人間の目は適  当に視野内をスキャンしているだけ、高解像  度の画像イメージは脳が作り出している」 ・しかし、視覚に較べて嗅覚を意識的に遮断  するのは難しい。しかも、幻覚なので鼻を掴ん  でも、息をとめても臭ってくる。 ・視野の中にある欠損を脳がないものとして処  理をしてしまうのだ。本来そこにある欠損部に周  囲の景色から偽の景色を作り出し、当て嵌(は)  めてしまうのである。何のために脳にこんな機  能があるのかはわからないが、この機能のおか  げで多くの人々は「盲点」というものの存在すら知  らずに過ごしているのだ。 ・人間が動いているものを感知する能力は予想  以上に低い。 ・筋肉の動きを加速する事は比較的簡単だ  が、脳の働きを加速するのは極めて難し  い。無理やりに神経信号の周波数を上げ  たりしたら、熱が発生し、脳細胞が死滅  してしまう。 ・嘘は「つく」ものであり、「つかれる」ものではない。すな  わち、「嘘」は発話者の主体的活動に重点があ  り、嘘を言われた人間がその情報が真実で  はないことを見抜けず、「だまされる」のである。 ・「口にしなかったことは、思わなかったことと同じ」 ・あまりに毎日、生と死のことばかり考えているので、  この洋服がかわいいとか、この料理がおいしいとか、  そういうことがわからなくなる。そんなこと、どうで  もいいじゃない、と思ってしまう。毎日、病院の中  だけにいると、天気とか政治とか経済とか、何に  もわからなくなる。総理大臣が変わっても、この子  の病気は治らないのだから。 ・嘘だと思われないための発言  ・言葉を濁さずに一文で言い切ること。  ・内容は、普段起こりやすく、聞き手が確かめ   ることができること。  ・一文以上の発言をする場合には、相手には好   意を示すこと。 ・――“妻の写真が仕事部屋の西側の壁に掛  かっている”  そこにあらわれた文字は、写真そのもの同様に気  に入らなかった。そこで<削除(デリート)>のキーを  叩いた。画面の文字は消えた。あとにはしき  りに明滅するカーソルだけが残った。  壁を見上げると、そこにあった妻の写真も消  えていた。 ・これまでずっと、レコードプレイヤーや、ガソリン・エンジン、  電話、テレビ、トイレの水洗装置など、それの働  きの仕組みのことはわからないまま過ごしてきた。  いわば原理は知らないまま、その操作だけを  理解してきたのが彼の生き方であった。 ・ジョウントってヤツは、肉体にとってはほぼ  一瞬の出来事だけど、精神にとっては長  い、長い体験らしいとみなされるようになって  ね ・どうやら意識という観念と、意識は粒子に  分割できないんだ。 ・「――これは一人の人間にとって小さな一歩だが、人  類にとっては大きな飛躍だ」 ・今はまだ、その何かの大きさに誰も気付いていなかっ  た。気付いていたなら、立ち向かう勇気など湧いて  こなかっただろう。  でも、今はそれでいい。蛮勇こそが世界を変える  力になる事を、いつか彼らは知ることになるのだっ  た。 ・「家に縛られる事など愚かな事だ。私たちは家  を利用する立場でいるべきだ」 ・「アリス症候群は海綿状脳症の一種  だと考えられている。脳の神経細胞が  変性し、空胞を形成する疾病だ。病気が  進行するといわゆる認知症を発病する」  「認知症って、もしかして……」  「記憶障害、睡眠障害、失認、幻覚、  抑鬱――」 ・「わたしが我が儘を言わなかったのは、言えなか  ったからではありません。言う必要がなかったか  らですよ」 ・「おいおい、見送りにやってきた友達に向かってそいつは  ないんじゃねぇのか?」  「べ、別にあなたのこと友達だなんて思ってないわよ」  「そっか……俺たちっていつの間にか恋人同士だ  ったんだな」  「あり得ないわよ!」 ・男は世界を救う為に破壊者になるのだろう。 ・あなたを定義する物は何? あなたを規定  する物は何? ・「かくさん……ってなぁに? すけさん?」  「生物の遺伝情報を格納できる物質  だよ。DNAと言えばわかるかね?」 ・同じお手洗いに行きます。 ・さすがに楽器食べるのはちょっと。 ・「また時計見てる」  だってクリス君、時計大好きだもん ・“思い出作り日(デイ)(連休だからと普段しな  い遠出をしたりして夢のような出会いを期待  すること。しかし大抵は何も起きず、ただ無  為に日々だけが浪費されていく)” ・「いや、ない。これまで失敗したことのなかったものが失  敗したのだから、これまでやらなかったことをした方が  いいかと思ってな」  さすがの発想ですアネモイ先生。 ・「水というのは、腐るものだからな」  「え?」  「腐るものは腐らないことに価値がある。腐敗  があるからこそ、反対の意味である新鮮  は成り立つ。それは、堕ちるからこそ昇ることがで  きるのと同じだ」  「…………」  「水は生きてるんだ。生きているものが生きて  いるものに教えられることは、意外と多いもので  な」 ・「笑う」を「微笑う」って書くようなのを期待し  てたのに、明らかに「嗤う」って感じだよー?   下手すると「嘲笑う」って感じだよー? ・「ええ、コミュニケーションですわ。けれどもそれは自分  で調べ、考え、やれるだけのことをやった上で、そ  れでもわからなければお尋ねするものでしょう  ――それは神と人に関係なく、人と人との  関係であっても」 ・「つまり、もともと空などなかったんだ――地に  住まう人間が生まれて、初めて天という概  念が成り立った。その時に“空”は生まれ  たんだ」 ・はんぶんのいち ・「だが記憶など、常に上から砂の流れる砂漠  に物を置くようなもの。それが古ければ古いほ  ど、その上にはどんどん砂が積もって発見が困  難となっていく。だから人は記憶に自信が  持てず、そしてだからこそ常頃から意識して  いるもの――すまりいつでも砂を払っている状  態にあるものだけが、より鮮明に思い出せる」 ・「黄草(きそう)」――同名の植物があるがそれとは  異なる。いや、そもそもこれは植物ですらな  い。  黄草とは腐った水。  “黄”は黄なる泉――つまり死者の国で  ある黄泉を表し、“草”は“瘡(くさ)”より変  化したもので、毒を意味する。  故に、生きながら腐り果てたもの――それ  こそが日家(たちもりけ)において「黄草」と  呼ばれる存在だすなわち「黄草」とは、言い換えれば“こ  の世ならざる毒水”。  「黄草」とは毒。  黄は姉の名前であり、草とは彼女の名前。毒を  分け合う姉妹。  けれど、“兄”という存在が家族に加わったこと  で――  黄と、輪と、草。  彼女たちは「黄輪草」となったのだ。  黄輪草は麒麟草ともいい、特に秋の麒  麟草には“幸せな者”の意味があるのだ  と宮司は語った。 ・「陛下、お前っていったい何者なんだよ?」  「余は王である」  「……そうかよ」  「そして貴公の友だ」  疑問は何一つ解消していなかったけれど、  なんだかその言葉だけで充分な気がした。 ・「……そうだな。確かにその通りだ。妹のため  にあんなところまで登ってきて、神をも殴った  んだ。それで努力が足りないというのなら、  神(うち)はいったい誰の質問に答えれば  いいというんだ」 ・シグナリオ ・まず耳を傾けることから音楽ははじまる ・「うち、関西やねん」と言った女の子は、茶色い神だ  った。その物言いには、宇宙人が「われわれは  宇宙人だ」と名乗るようなおかしみがあった。 ・平和を願ってピンフを、点数安いのに、  頑張って作ってるのにね、まわりのオヤジた  ちがどんどん、邪魔して、俺を負かすんで  すよ。俺は、世界を平和にしようとしている  のに。これ、おかしいですよね ・自由の国が自由を奪って ・「悪徳の不動産屋も結婚詐欺師も、  戦争を企む大統領も、最初の一言は  みんな、『相談したいことがある』だと思う」 ・高級住宅街というのは夜になっても偉  そうだ ・「あのさ、政治家が、私はやってない、って言  う時はさ、たいてい、やってんだって。汚職  でも浮気でも、裏金でもよ。で、国民のた  めにやっているって言う時はたいがい、やってね  えんだよ」 ・「いっそのことね、大きな石の板を用意する  んですよ。その石にね、そこに何千人、  何万人がね、署名をするんですよ。刻んで。  で、それを首相や大統領の家に落とし  て」  「落とすって、物理的に? 上から?」東堂が聞  き返す。  「そうですよ、物理的にですよ。そうすれば  少しは彼も、重く受け止めるでしょうに」 ・「科学のおかげで便利になったのは確かで  すけどね。ただね、真実だからって偉そう  に話していいかっていうと、それは別物です  よ。逆にね、みんなを興醒めさせちゃうんで  すから、もっと申し訳なさそうにすべきなん  ですよ」 ・「みんな、正解を知りたいんだよ。正解じゃな  くても、せめて、ヒントを欲しがってる。だから、  たとえば、一戸建てを買う時のチェックポ  イント、とか、失敗しない子育ての何か条、と  か、これだけやれば問題ないですよ、って  いう指標に頼りたくなる」 ・みなさんご存知の、レジ前の淑女。好き  な小説家は、と訊ねられ、わたしは  そう簡単に人を好きになったりしません、と  答えたので有名な ・「いったい何をしたら、車をくれるんだ」  「何も。隣の席に座って、話を聞いたり」  「愛想良く?」  「わたしなりに」  「僕も今度、その人の隣に座って、話を  聞いてあげたいな」 ・32番のカードをお持ちの方。  もしくは少しの恋心をお待ちの方。 ・溢れる生命力って、ゴキブリに使う表現だ  よね。 ・どんなに大事件が起きても、わたしたちは会社  に行って、仕事してさ。電気うなぎも観に行  くし。戦争がはじまりましたよ、なんて言っても、  結局、その日の合コンは開催しちゃいそうだし。  個人的な生活と、世界って完全に別物に  なってるよね。本当は繋がってるのに ・「お父さん、何だって?」七美がついてきて、服の  裾を引っ張ってきた。  「七美が、嫌いなキュウリを食べられるように  なったら、帰ってくるって」  「じゃあ、帰ってこなくていいよ」  「クールだねえ」 ・「いいじゃんいいじゃん。『急ぐと失敗する』って有名  な人が言ってたでしょ」  「誰が」  「この間テレビで観た。ドミノの記録に挑戦  してた人が言ってた」  「その人の場合は本当に、急ぐと失敗するから  言っただけだと思う」 ・「それはそれで、年取っても語れる思い出になる」  「それなら、いっそここで、雪とか振ったら、もっと  思い出深いよな」「雪が降ってきたら、カズも  部屋に入れてくれるんじゃないか」「俺がカズ  なら、入れないけどな」「どうしてだよ、青柳」「雪に埋  まったおまえを見てみたいからだ」「ああ、それは面  白そうだ。当事者以外は」 ・「すぐに返信しないタイプの子かもしれないっ  すよ。受信がうまくできなかった、とか。セ  ンター呼び出し、してみました?」  「俺がセンターだったら、激怒するくらい、呼  び出したよ。メールはありません、って。こっちだっ  てそんあの重々分かってるっての ・「俺もそうだが、悪人に見えない奴に限って、  お前の敵なんだよ」 ・大した根拠もないのに、人はイメージを持つ。イメ  ージで世の中は動く。味の変わらないレストラン  が急に繁盛するのは、イメージが良くなったから  だ。もてはやされていた俳優に仕事がなく  なるのは、イメージが悪くなったからだ。首相を  暗殺した男が、さほど憎まれないのは、共  感できるイメージがあるからだ。 ・「でも、可能性はゼロでもないですよ。その相手  は、青柳さんの言うこと信じてくれるんですか?」  「分からない」青柳雅春は返事をする。「ただ、  俺にとって残っている武器は、人を信頼す  ることくらいなんだ」 ・「で、何を運んでほしいんだよ」岩崎英二郎  は顎を少し上げた。自分が持ってきた、台車  に目をやる。会社のイメージカラーでもある薄  い青色シートで覆われた、台車だ。大きい  荷物を複数個、運ぶ際に使用した  り、もしくは駐車禁止区域となっている街  中での配達の際、サテライトからその台車を  使い、徒歩で運んだりする。  「俺を」青柳春雄は言う。「仙台から逃がし  てくれないですか」 ・「思い出の場所って、カーナビで教えてくれるの?」 ・そもそも偽物の存在自体が信じられないの  だから、薄闇の中で、あれが霧だ、と示さ  れたかのようなつかみどころのなさを感じた。 ・「急に呼び出して、ごめんなさい」  「いいのいいの。ランプをこすれば出てくるんだから」 ・おい森田、むしろ、人間の最大の武器は、笑  えることではないか? そう言いたかった。どん  なに困難で、悲惨な状況でも、もし万  が一、笑うことができれば、おそらくは笑うこ  となどできないのだろうが、笑えれば何かが  充電できる。それも真実だ。 ・「もしそれしか方法がないのなら、それも一つの戦い  方かもしれない」 ・左手を見下ろすと判子が押されていた。可愛ら  しい花のマークで、真ん中に、「たいへんよくできま  した」と文字がある。  周囲を様々な人たちが次々と通り過ぎて  いく。川の流れに取り残されるかのように、  青柳雅春はその場に立ち尽くし、少女が消  えていった方角をもう一度見た後で、その左  手を口に近づけ、早く乾くように、ふうふう息  をかけた。 ・「口説いても無駄だとは言ってましたけどね。  うちの親分、黒澤さんのこと買ってるんですよ」  「買うも何も、売ってないんだ」 ・「オリエンテーリングを知っているか?」と思わず言って  いる。  「地図とか見て、目標の目印を探してくや  つだろ。俺だってな、それくらい知ってる。年  寄だからって馬鹿にしてるのか」  「年は関係ない。ようするに、『未来』はそう  いうものなんだよ。探し出すものなんだ。『未  来』は闇雲に歩いてもやってこない。頭を  使って見つけ出さなくてはいけないんだ。あ  んたもよく考えたほうがいい」  「俺が考えてないと思ってんのか」  「その先を考えるんだ。あんただけじゃない。  政治家だって、子供だって、みんな考えて  はいないんだ。思いついて終わりだ。激昂し  て終わり、諦めて終わり、叫んで終わり、叱  って終わり、お茶を濁して終わりだ。その次  に考えなくてはいけないことを考えてないんだ。  テレビばっかり観ることに慣れて、思考停止だ。  感じることはあっても考えない」 ・「世の中にはルートばかりが溢れている、とね。  そう言ったよ。人生という道には、標識と地  図ばかりあるのだ、と。道をはずれるための  道まである。森に入っても標識は立っている。  自分を見詰め直すたみに旅に出るのであれ  ば、そのための本だってある。浮浪者になるた  めのルートだって用意されている」 ・「天才が発見するのはいつも法則だ。高橋  さんは知っていた。『世の中はこのようにできて  いる』『人はこのようにできている』とね。事件  のことも同じだ。犯人や犯罪の法則を  見極めることができる」 ・だいたいラベルの『中三』という表示を見ただけで、  たいての人は『受験生』という名の冷蔵庫  へ放り込んでしまうものである。  中三受験生。ナマモノですのでお早めにお  召し上がりください。 ・「はじまりはここだ。うまい棒なっとう味だ。返  品上等。倉庫の不良在庫。淡谷雪国は  このわずかな短期間でなっとう的エンジョ  イ委員会を大幅にクラスチェンジさせるこ  とに成功したわけだ。このまま行けば、サー  クル解散どころか部費付きのクラブへ昇  格するのも夢ではない。それだけで充  分なのだ我々は」 ・「俺たちはな、何百の色恋沙汰を傍で見て  きた。見て、たまに口出しするだけだ。だがお  前は違うだろ。見ているだけじゃ止まらな  かった。お前の気持ちを無にするな!!」 ・めりめりというよりノミで砕き壊すような気分  で寝返りを打てば、さらなる地獄がカモン  ベイビー。 ・世界の物理的体系が無矛盾なら、その世  界は仮想でないことは、その世界の中にいる  限り証明することはできない ・朝メシ前ならメシをしっかり食っとけよ  最後の晩餐になるからな ・トンネル効果  非常に微細な世界にある粒子が乗りこえら  れない障壁を、時間とエネルギーとの不確  定性原理により乗りこえてしまう。 ・「なかなか性格がよさそうなヤツだな」  「プラスチックのオモチャよ」 ・人生で一度だけ人の鉢花に興味をもったセリ  フがなんだと思う?『これ食べられるのユキグニ』  だよ信じられる? ・「一度だれかを好きになったら、もう他の人は好きに  ならないの? 視界の中にも入らないの? それって  思考停止とどう違うの? 順番が違うだけで  見てももらえられないなんてない。絶対ないわよ」 ・芝目は言った。この件は、ヨットの材料で車  を作って、どちらがよく走るか比べあってい  るようなものだと。  組みあがるはずのない部品をかかえ、それで  も最大限の努力を重ねて車を作り、これは  車だから走るはずだ、車を持っている自分は  幸せだと言い聞かせ、そして現実には廃  品寸前の壊れたなにかが道ばたに転が  るのだ。 ・彼女の言うことはすべて、どこかすこしおかしい。な  んとなく調子が外れている。まるで、まちがった  キーで歌われる歌を聴いているような気がするの  だ。 ・アニーは静かに笑った。彼女の癇癪はただい  まのところバカンス中らしい。ただし、アニー・ウィ  ルクスのことだから、いつ何時そいつが鞄をさ  げてバカンスからもどってきて、「やっぱりもどってき  たわよ! どう、元気?」と声をかけてこないとは  かぎらない。 ・「医師の処方なしでは服用しないでください」  箱にはそう書いてあった。  「ああ、結構、医者は私の内部(なか)にいるぞ」 ・著作は不幸(ミザリー)をもたらさない。著作  は不幸(ミザリー)から生まれるのである。  ――モンテーニュ ・重力の法則を覆せと要求したり、レンガで  テーブルテニスをしたがるような、馬鹿なまね  はしないということだ。アニーはたしかに忠実  な読者だが、忠実な読者はまぬけな読  者だとはかぎらない。 ・「おまえさん、たいした物書きじゃないな。なにせ、  頭のイカれたふとっちょの元看護婦さえ喜  ばすことができねえんだからな。おおかたあの  事故で、物書きの骨まで折っちまったんじゃ  ないかい……折れちまって、治りかけていねえんだ」 ・アニーは手錠をスカートのポケットに、まるでクリネック  スかコートハンガーでも入れるように、こともなげ  に落とし込んだ。普通の家庭にも拘置所が  あって当たり前という気色だ。 ・「大部分が家にピアノを持っていたからだよ。  われわれユダヤ人はピアノに愛着がある。  ピアノを持っていると、なかなか移住するとい  う考えになれないものなんだ」 ・「棍棒や石なら骨を砕くかもしれないが言  葉では傷つかないぞ」 ・『私は鳥』  ああ――息詰まってるるんだな。逃げ回ってるんだ  なおばあちゃん。そんなせっぱ詰まった状況  だけが伝わってくる書置きだ。 ・ピンと張った笑顔の中に。ゆっくりと歩き出す横  顔に。彼女たちはいくつもの意味と思いを圧縮  して詰め込むのだ。怒り。喜び。悲しみ。憎し  みも。はたで見ている雪国としては、ときどき  受け取ったリアクションのファイルを、解凍せずに  丸飲みしているのではと不安になることがある。 ・そこに涙はいらない。みんな幸せになるため  なら、もう一度だけでも嘘をつく。全員が笑っ  て、全員で幸せになる未来。そのことのためだけ  に力を尽くせ。 ・【本分】>すっごく欲しかったワンピースなんですが、  >あたしが着るとあたしがブサイクに見えます。  >先生ならどうします?  書きな ・「……おはよう。時計と同居人が故障してて  ね。やや遅延気味だ」 ・すえながくバクハツしろ ・茶番は続くよどこまでも ・横顔ウォッチング ・図星にウメボシ ・音は消える ・血統書付きの根 ・神のGPS ・「私は貴方のものです。貴方の所有物です。貴  方が殺せというのなら、私はどの世界の誰で  あったとしても、ええ、私ですら完膚なきまで  に破壊する準備はできています」 ・教室は暗かった。だが、僅(わず)かな月明かり  が、窓を仄かに切り取っている。 ・強請(ねだ)ると強請(ゆす)る ・「過去は壊れない。でも、未来は壊れる  かもしれない。だから急がなくちゃ」 ・観測されることによって存在は成立します。  たとえ物理的にそこに在ったとしても、何  者の観測も受けられなかった場合――  誰にも認識されなかった場合、それは  存在とは言えません。 ・「たとえば、脳細胞の中に刻まれた記憶、  感情も含めた完全なデータ。仮にその  データがハッキングされてしまって、多少の歪  みが生じたとする。そうした時、人は……  いや、お前は、そのバグのあるデータをオリジナル  だと認めることができるか?」 ・「だったら、途中でやめるんだね。本はポンプの  ようなものだ。最初に読む側が力をこ  めなければ、なんにも出てこない。ポンプに  まず呼び水をさしてやり、自分の力でハンドル  を動かすことだ。なぜそんなことをするかと  いえば、最初にさした呼び水以上の見返  りが……いずれは手に入れられると思うか  らだ。どうだね、きみもそうは思わないか?」 ・因果横暴 ・《あの男(あるいは女)をどこまで信頼するか  は、そうね、わたしがピアノを投げられる距  離ってとこかしら》 ・ボビーは現実の世界が気にくわなくてならなかっ  た。短いあいだとはいえ、世界が嘘くさいジョ  ークにしか思えなくなった――濁った目をし  て、せせこましいことしか考えない、不細工な  顔だちの人間ばっかりだからだ。ときどき  ボビーは、この世界にもプロットがあれば、も  うすこしましな場所になるのではないかとさえ思った。 ・二十の扉なみの質問 ・三十年たってもまだ人を笑わせる力をそなえた  作品は、断じて時間の無駄ではない。そ  ういった作品は不滅の域にきわめて近しいと  ころまで達しているのではないだろうか。 ・トランプ遊びに興じては自分たちの将来の  設計図に穴をあけていた ・こちらの音には、世界最大のウインドチャイムが  落ちてくるのかのように音楽を思わせる響き  を帯びていたのである。  落ちてきたのはグランドピアノだった。本体は白  塗りで金の縁どりがほどこされたグラン  ドピアノ、黒いドレスをまとった長身のクールな美女  がしなだれかかるようにして、コール・ポーターの  <夜も昼も>を気だるげに弾きそうなピアノ  だ――やかましい車の音のなかでも、ひとりの部  屋の静けさのなかでも、タララ・タルラ。なんど  もなんども回転しながらコネティカットの空から  落ちてくる白いグランドピアノは、渋滞で完  全にストップした車の行列の上に水母(くらげ)  のような形の影を落とし、回転をくりか  えす内部を空気が吹きぬけていくたび  に、ふるえるピアノ線が風に似た楽の音  を奏で、鍵盤は自動ピアノのようにひとり  でにさざなみをつくり、かすんだ日ざしがフ  ットペダルに反射していた。 ・「魔法のほんの少しのひとかけらが残って、  あとあとついてまわる……そんなことも  あるんじゃないかな」 ・とろける命しらず ・このシナリオだったらこんなゲームになる  想像できる、絵が浮かぶ ・和風Wizardry純情派 ・言葉のヘッドショット ・アルは一度も生きた姿を見せなかった。  そして音楽だけがのこった…… ・人でないモノを愛した男は、  最後に人間であることを辞めて、恋を成就させ  るんだ。  ハッピーエンドだよ、だろう? ・理想的な絶望 ・「それバイコディン?」  「ブレスミントだ。キスするんだろ?」 ・「ネコと違い、俺は好奇心では死なん」  「ことわざの意味を取り違えるな」 ・検査器具を変えよう→ピアノ ・A、T、C、Gの並びは、ある部分では規則性  があるような、ランダムであるような並び方であ  り、研究者の何人かが、この並びを音楽に  して聴いて見ると、何か法則をつかむのに  役立つのではないかと考えたのが始まり ・初心者はピアノを弾くための指の練習なんかしな  いほうがいい。曲の中には、とんでもなく難しい  部分があるでしょ。私はその曲の中で、指の  練習をすることにしているの。人生は、指の練  習をしているには短すぎるし、第一、意味がな  いもの  ――フジ子・ヘミング ・音楽だけが世界語であり、翻訳される必要がない。  そこにおいては魂が魂に働きかける。  ――バッハ ・「あなたの言葉ごときで、わたしのピアノは止められはしない!」  ――ショパン三世 ・「今の世の中では、完璧に間違いのない演  奏が求められますが、これは残念なことです。  “正確さ”は考えなくてよいのです。 ただひ  たすら“音楽”を追い求めなさい。」  ――スティーヴン・コヴァセヴィッチ(ピアニスト、教授) ・「1日あたり午前中を中心に、5時間以内の練  習をするように」  ――コルトー  「ピアノは一日三時間で、疲れたらその都度休む  ように」  ――ショパン 「重いピアノで一日6時間弾け!」  ――フランツ・リスト ・「受け入れる心になるまでは、音楽も意味の  ない騒音にすぎない」  ――ポール・ヒンデミット ・「さあ!世の中へ出てミステイクをやってきたまえ!  でもそれでいいんだ。君のミスだからさ。君自  身のミスでなければならない。君の音楽で何  かを言ってきたまえ。何でもいいのさ、“これが  君だ”という何かをね。」  ――ウラディミール・ホロヴィッツ(ピアニスト) ・「僕の右手になってください」  ――ロベルト・シューマン  シューマンはその頃、ピアノでムリな練習の  せいで右手がおかしくなり、ついには麻痺し  て動かなくなっていたという。すなわちこれは、ク  ララへのプロポーズの言葉。 ・「音楽は遺伝子で歌うものではありません。魂  で歌うものです。」 ・「音の中に或る感情の直接的流出を許す行  動というものは、一音楽作品の創作にある  のではなく、むしろその作品の再生、すなわち演  奏にあるのである」  ――ハンスリック(音楽学者) ・「何でも音楽として聴けば音楽になる」  ――ジョン・ケージ ・彼は何千人もの人に聴かせる様に弾く  が、私はただ一人の人に聴かせるために弾  く  ――ショパン ・シェーンベルクは「それは君にとって音楽を続  けることの障害になるだろう。ちょうど通り  抜けることのできない壁につきあたるようなも  のだ」と伝えると、ケージは「それなら、私は壁  に頭を打ち続けることに一生を捧げます」と  答えた ・間違えて、清潔なシャツを右の籠に入れてしま  ったら。あるいは、きれいな左の籠に汚れた  シャツを入れてしまったら。――それは何度とな  く浮かんだ私自身への問いかけだった。間  違えた場所に入れられたシャツは、そこで  肩身を狭くして、籠から出される日をじっと待  つしかない。そう思っていた。  今、私は汗だくでよれよれのただのシャツだ。  洗って干されて太陽の匂いのするシャツたちの  中に、混じることができるだろうか。 ・「絶対音感なんて大したものじゃないのよ。そんな  もののために小さいうちから音程を叩き込まな  きゃ花開かないような才能なら、べつに開かな  くていいじゃない」 ・それより、この心臓はだいじょうぶなのか。耳か、  頭か、もしかすると目の奥が、ガン、ガン、ガン、  と規則正しく鳴っている。このガンはラ。ドレ  ミファソラ、の、ラだ。そんなことわかったって  なんにもならない。絶対音感なんてどこか  へ行ってしまえ。 ・学校の音楽にあるピアノの音、銀色に転  がる玉、みたいな音、私はそれが大好きだっ  た。音楽の時間はピノの音だけをうっとり  と聴いた。拾い集めるそばからこぼれて  消えていってしまう音に、できることならいつま  でも触れていたい。 ・音楽室に行けばピアノが弾けるから、昼休  みや放課後にときどきこっそり通った。楽譜  は指で辿ればなんとか読める程度。ピア  ノの弾き方はまったくの自己流で、それでも  じゅうぶん楽しかった。小さな声で旋律を口  ずさむと、ピアノと歌との間に別の旋律が  生まれては弾けた。 ・それからは猛特訓だった。なにしろ自分のた  めだけに楽しんできた自分勝手なピアノだ。  譜面も苦手なら運指も苦手だった。音  符に髭が何本もくっついているとそれだ  けで腰が引けてしまう。シャープがふたつ  以上になるとまごつく。クラス委員のひかり  に手伝ってもらって楽譜と鍵盤を連動さ  せるのに必死だった。ひかりのほうが私なん  かよりよほどピアノがうまかったはずだ。あ  れくらいの楽譜なら初見で弾けたんだと  思う。それなのにへたくそな私のピアノに辛抱  強くつきあってくれた。ひかりにはほんとうに  感謝している。 ・「俺としては、古典でおまえたちの目を開かせ  てやりたいわけ。でもなんでだか、おまえら俺  の授業中、目を閉じてるじゃないか」 ・音楽というのは、お互いの親密さと信頼  があって育っていくものらしい。 ・専門的な勉強をしていなければ通じな  いのなら、誰のための音楽だろう。 ・……僕は、構わなかったんだよ。 ・タンポポの種が心を決めるとしたら、どん  なときだと思う?  それはね、その砂漠に――たった一人だけ  でも――花を愛してくれる人がいるって知  ったとき。タンポポの花は綺麗だねって、  種に話しかけてくれたとき ・日本の省庁のなかで  本気で明日の日本のことを考えているのは  気象庁だけ ・全員頭を失うことになるぞ  頭なんかもうないよ ・「人を傷付ける力で人は救えない。それは私じ  ゃなくて、あんたが一番よく知っていることだ。もち  ろん、人を傷付ける力で人を助けることはできる。  それは可能。  でも、助けることはできない。この違い、わかるだ  ろ?」 ・「先日、やっと予算がおりて、PETスキャンが二、  三回使えたの。クレインさんの海馬状隆  起になんらかの活動が確認され、それ  は長期記憶の保存形態と非常によく  似ていた」 ・「クレイン教授が第一に関心をいだいていた研究  事項は、脳の冗長性と機能交換について  だった。つまり、脳の一部が失われてつか傷つ  くかした人が、損傷した部位の機能のどれ  くらいを、正常な組織に転移させうるか、とい  うことよ。 ・カニューレのネットワークを、つまり超微細なチューブ  を網状に――チューブはとても細いから、それ自体  がなにかの障害を引きおこすということはないわ――ほ  ぼ脳全体に行きわたるかたちで埋めこん  だの。そのあとも前と変わらずひ刺激をあ  たえ、発育ぶりを記録した。そうしながら、週  にいちど、カニューレを通じて、赤んぼうの脳を  少しずつ破壊していったのよ」 ・いずれバッハをきいたときに感じる歓びの  生理学的根拠を、順を追って説明す  る人が出てくるだろうが、だからといって、  いきなりその歓びが、“原始的”な反応だ  とか、生物学的ないかさまだとか、陶酔  薬による高揚感と同様の空虚な体験  だとかいうことになったりするのだろうか? ・キューティは人間の生殖細胞から作りだされた  ものだが、受精以前に大幅なDNA操作が  おこなわれている。赤血球の血球壁を作る  のに使われる蛋白質のひとつをコードしている  遺伝子を改変され、さらに、ある年齢に達  したとたん、その改変された蛋白質をばらばら  に分解する酵素を分泌するよう、松果体と  副腎と甲状腺に変更を加えられたことで  (決して失敗がないよう三重のバックアップ体  制がとられている)キューティは絶対確実に  幼くして死ぬ。胎児期の脳の発達をつ  かさどる遺伝子に多大な欠損があたえられ  ているので、キューティの知性が人間のレベル  に達しないことは絶対確実だった。 ・信号を発するか発さないかは、ニューロンの  働きのほんの一面にすぎない。生科学上の微  妙な問題や、そこに関連する特殊な有機分  子の量子力学が、人間の意識の本質と関係  ないなんて、だれにいえる? 神経を抽象レベ  ルで位相幾何学的にコピーしたってだめなん  だ。そりゃ宝石はあめでたいチューリングテストに  パスするだろうさ。外から観察しても、人間と区  別がつかないだろう。だからって、宝石として生  きていることが、人間として生きていることと同じ  られるとはいえないよ。 ・問題は、ウィルスや毒素や薬品や不法ドラ  ッグの多くも、そのバリヤを通過できること。自然  が作った保護細胞は、エイズにも、胎児期アル  コール症候群やコカイン中毒児にも、第二、第  三のサリドアイド禍にも対処できるような進化は  遂げなかった。そこで、遺伝子改変用DNA運  搬者(ベクター)を静脈注射して、胎盤内の適切な  組織にあらたな細胞層の形成を引きお  こし、それによって母体の血に含まれる汚染  物質から胎児の血を保護すること――これが  わたしたちの最終目標 ・人はストレスにさらされると、それが肉体的な  ものでも感情的なものでも、ある種の物質  の血中濃度があがる。とくに、コルチゾールとア  ドレナリンがね。アドレナリンは急速だけど短期間  の影響を神経系におよぼす。コルチゾール  とは、もっと長い時間単位で作用して、あらゆ  る種類の肉体的プロセスを怪我や疲労  などの困難に適応できるように調節する物  質。ストレスが長期化するなら、コルチゾールの  濃度は数日でも、数週間でも、数か月でも  高いままでいられる。 ・薬を売るには、病気が必要である ・もし、“選択”がまったく因果関係に基づいて  いないのだとしらら、なにがその結果を決めるの  だろう? 答えは脳の中の量子論的雑音か  ら生じる無意味でランダムな異常(グリッチ)  だ、というのが一般に流布している理論だった ・物真似を悪くいっちゃいけないよ――だい  たい、生命からして物真似でなりたっているん  だから。きみの体内の器官という器官は、  絶え間なくそれ自身の姿にあわせて作りな  おされている。細胞分裂というのは、細胞が  死んで、自分そっくりの偽物と置き換える  ことだ。いまのきみの体には、生まれたときにもって  いた原子は一個も含まれていない――じゃあ、き  みがきみであること(アイデンティティ)の根拠はな  んだい? それは情報のパターンであって、物理的  ななにかではないのさ。 ・そろそろペアレンツがうるさいので ・聖人でなければ癒せないのなら、医学は最  初から消え去る運命にあったことになる。 ・量子力学や大脳生理学が描く実像は、あ  るいは人工現実や生命工学が示唆する世界像は、  あなたがいま生きている世界、あなた自身  の姿にほかならない ・オートヴァースは“おもちゃの”宇宙――それ  専用の単純化された“物理法則”に従う  コンピュータ・モデルだ。その法則は、現実  世界の量子力学方程式よりも、はるかに数  学的処理がたやすい。この様式化された  宇宙に原子は存在できるが、それは現  実世界の等価値とは微妙に異なってい  た。オートヴァースは現実世界の忠実なシミュ  レーションではない ・それは体全体の高度に洗練された医学  的シミュレーションで、もともとは外科医が  実習用仮想手術をしたり、薬物実験  で動物のかわりに使うために設計された。  〈コピー〉は、高解像度のコンピュータX線  体軸断層写真(CATスキャン)が生命  を吹きこまれたようなものだ。医学専門事  典と接続されて、あらゆる組織、あらゆ  る器官がどのようにふるまえばいいのかを判  断でき、最先端技術によるシミュレーション  建造物内のあらゆる器官は、専用サブプ  ログラムが“変装”したものだ。各サブプログ  ラムは、実物の肝臓なり脳なり甲状腺  なりがどのように機能するかを(個々の原  子単位という意味ではなく、百科全書的  な意味での詳細さで)知っているのが、タ  ンパク質分子一個についてさえシュレディ  ンガー方程式を解くことはできない。すべ  てが生理学の問題であって、物理学  は無関係だ。 ・体内に器官を挿入することなく、個々の  ニューロンをマッピングし、個々のシナプスの  特性を判断できる段階に到達していた。  スキャン装置を組みあわせて、あらゆる心理  状態と関連する脳の働きを生きている人間  から読みとり、じゅうぶんな能力をもつコンピュ  ータに複製することも可能になった。 ・ポールは数えた。世の中にこれほどやさしいことは  ない――自分が血や肉で、いや、物質でできて  いて、クォークや電子がごく自然なふるまいを  しているのなら。つきつめれば生身の人間は、素  粒子の場に実体化した存在であり、自分  自身以外の何物でもありはしない。それに  対して、〈コピー〉の実体は、コンピュータのメ  モリ内に依存する、膨大な数字の組み  あわせだ。 ・すべての記憶は盗品である ・それは、正気の人間が単に物理法則と  呼ぶものを母さんたちは神として改名したに  すぎない ・問題のパターンが独立した物体ではな  く。自己完結した世界だとしたら、そして、  最低ひとりの観察者が内側から点  々を結びつけているとしたら ・そこには基礎物理学が存在しないんだ  から。〈コピー〉のニューロンのふるまいは、な  にか根本的な法則から生じるわけではな  くて、人体のニューロンについてわかってること  をそのままもとにした、“ニューロンのルール”  みたいなものに従っているだけ。でも実物  の人体では、そのふるまいは、物理法則  が何十億という分子に作用した結果だ  わ。〈コピー〉に関しては、効率化を名分  に、あたしたちはごまかされてるのよ。分子も  物理法則も存在しないのに、生物学という最  終結果を直接手渡されているだけなんだか  ら ・因果構造をまったくもたない観察者がい  たとしたら、どうだろう? ・わたしというパターンが、この世界で生じている  ほかのあらゆる事象の中から、それ自身を  識別できるのなら……わたしたちが  “宇宙”と考えているパターンが、まったく  同じようにそれ自身を組みあげ、それ自身  を認識していると考えて、なにが悪い?  もしわたしが、あまりに広範囲に散らばって  いるために、なにかの巨大でランダムな数  字の群れの一部としか思えないデータを  継ぎあわせて、自分自身にとって首尾一貫  した時空間を作りだしているのなら…  …おまえもまったく同じことをしているのでは  ないと、なぜいえる? ・夫は彼女の荷物をすべて運んでくれたが、  重いピアノだけは拒否した。ピアノは浜  辺へ置き去りにされた。 ・口に毛の生えた棒を突っ込んで、出したり  入れたりしながら、最終的に白い液体  を出すものなーんだ  歯磨き ・これまで音が聞こえたことのない沈黙がある  これからも音が聞こえるはずのない沈黙がある――  深い、深い海の、冷たい墓の中に           ――トーマス・フッド ・私自身は自分が沈黙しているとは思っていません。な  ぜなら、私にはピアノがあるからです。 ・まるで心の中に忍び込んで揺さぶるような弾き方  ですよ、あれは教えられないわ ・『サマータイム』。右手だけの力強いピアノのタッチだ。 ・「今日が運命の日かもよ。あんた、天国と地  獄のどっちへ行くの?」 ・家で佳奈が虐待している、ぼろのアップライトと  はえらい違いだ。 ・ぼくは心からそう言った。彼は単純にメロディーを  なぞるだけではなく、和音にしたり、トリルをいれたり、  右手一本で、ずいぶん華やかな演奏をしてい  たのだ。ぼくの耳にはそれがひどくきれいに響く。 ・私はピアノを恐れていた。なにしろ大きすぎる。背  もたれのない丸いすに腰かけ、ピアノに向かう  と自分が世界で一番チビのような気持ちにさ  せられるのだ。 ・雨の音がピアノの音色の中に溶けていく。 ・イライラする。同じ曲を何日も繰り返し聞か  されるからじゃなくて(そんあのは、しょっちゅうだも  の)弾き手がイライラしているのがわかるから、こ  っちもイライラするんだ。 ・『九月の雨』は、古い映画の主題歌。センチメ  ンタルな回想の歌。盲目のピアニスト、ジョージ  ・シアリングのテーマ曲。彼の五重奏団のミリオ  ン・セラーのタイトル・ナンバー。とても、きれいな曲  だよ。何も、こんな降りやまない雨のように、うっ  とうしく引き続けなくてもいいと思うよ。 ・曲はブルー・ムーン。シュガーレス甘味料のように、  じんわり後をひく甘ったるさ。情けない弾き  方だな。毎日こんな演奏をしていたら、うでがど  うにかなっちゃうんじゃないかな。 ・俺はあの頃、片手でピアノを弾いていた。  左手がダメになって何よりこたえたのは、ピ  アノがまともに弾けなくなることだった。 ・音のしない小雨が、闇をぬらしている。悪い演  奏じゃないんだ。でも、俺はどこか気にいら  ない。どこか、音がべたべたしている。部屋の湿  度がいよいよ増していき、呼吸や皮膚を通し  て腕の中までべたべたしてくる。 ・「何になるとか、ならないとかじゃなくて、つまり、音の  センスっていうのは、誰もが持っているものじゃな  いだろう? 貴重だよ。弾けるというのは……。  ぼくはうらやましい」 ・ピアノの音がうるさくなって、窓の外の雨の音を  探してみた。ああ聞こえないな。きっと降ってい  るはずなのに音も届かないほど、めそめそし  た雨なんだ。 ・ピアノのタッチはやさしい。静かで楽しい、いい  演奏だ。人の気持ちをゆるやかにする。 ・ペダルを使って、離れた音をつなげていく。  新しい曲をひろう時の、楽しさ、まどろっこしさ、  切れ切れの音符、間違え和音 ・できるかどうかわからないけど、とにかく、やってみる。  俺なりのベストをつくして弾けるようにがんばって  みよう。  これが最後の曲だ。  これでもう、ピアノは弾かない。 ・ホワイト・ピアノは雪でできていて、鍵盤は氷。  白鍵が無色透明で、黒鍵が透明なブルー  。世界で一番冷たいピアノ。  お姫様は悪い魔法にかけられて、長い眠  りについている。世界で一番熱い心を持っ  て姫を愛する若者がこのピアノを演奏すると、  魔法が解けて二人は結ばれる。 ・無色透明な音。つきぬけた音。良く鳴って  きりきり張りつめた音。絶対零度の音 ・あいつはチェルニーの鬼だ。音を拾うのが早  くてテンポや強弱のつけ方が、やけに正確。  タッチも強い。まるで、畑をたがやすように次  々と曲を上げていくのをみると、私は腹がたっ  た。モーツァルトのソナタなんて弾かせてごら  ん。感情表現ゼロの唐変木だわ。 ・ピアノは、えらい緊張している物体なの。銅製の  弦をきりきり張りつめて、ぴしゃっと止める。それをさ、時  間が、まあ、地球の重力、湿気、熱、色々が、  ゆるめていくのよ。それを、また、緊張させるの ・「これねえ、弾き方次第で、いい音、出るんだよ」  センダくんは、そっと鍵盤に指をのせた。やわ  らかい和音が生まれた。胸の底をくすぐられ  るような、ほのぼのとした音だった。なめらかな、  ささやき声みたいな、丸みのある音。  ああ。これが、ホワイト・ピアノの音なんだ。窓の外  を落ちてくる雪の音だ。 ・ホワイト・ピアノは水じゃなくて雪の音がした。  やわらなかな音色に涙が出た時、私は広一く  んのことをはっきり思い出した。 ・〈コピー〉が、世界じゅうに散らばった塵からそれ  自身を組みあげ、宇宙各所の塵でその存在  のギャップに橋をかけることができるのだとし  たら……〈コピー〉には、整合性のない終わり  を迎えなくてはならない理由があるのだろうか?  パターンが、それ自身を認識しつづけてはいけ  ない理由があるだろうか? ・「エデンの園配置とはなにか、知っていますか?」  マリアは一瞬虚をつかれたが、すぐに立ち直った。  「ええ、もちろん。セル・オートマン理論において、  あるシステムの状態が、それ以前のいかなる状  態の結果でもありえないことをいうの。ほかの  いかなるセルのパターンも、その状態を生じさせ  られない。エデンの園配置を望むなら、それそ  のものからはじめなくてはならない――それを  システムの最初の状態として、自ら設定する  必要があるわけ」 ・シナリオを選んでから、ケイトについての自分の“知識”  の話の展開と一致するように書き換えたのか  もしれない。 ・オッカムの剃刀だ。ディスプレイが正しい結果  を表示しているという知覚を、いちばん単純  に説明しようと思ったら、じっさいに正しい結  果が生じていると思えばいい。 ・〈コピー〉になにをしたの? 頭をアンフェタミンでい  っぱいにして、目ざめさせたとか? ・もはや現実とシミュレーションには、確固たる  主従関係は成立しない。 ・創造者という考えかかたのなにもかもが自壊した  のよ。意識をもつ存在のいる宇宙は、塵の中に  それ自身を認識するか……それとも認識し  ないか、どちらかなんだわ。その宇宙は、自己完  結した全体として、それ自身の意味をそれなり  に見出すか……でなければ、まったく見出さ  ない。神は決して存在しないし、これからも決  して存在しない。 ・音楽は音の時間変化により喜怒哀楽  といったわれわれの感情に訴える。この音の  時間変化は、決してわれわれの周囲にあ  る変化を模倣したものではない。 ・言語もまた音の時間変化であり、音楽と言語  には共通点がある。おそらく音楽の起源  のひとつは、言語に抑揚を付けた「うた」であ  ろう。しかし、外国のうたを聴けば、外国語  が分からなくても、ある程度は外国人と共通  な喜怒哀楽の感情を持つことができる。 ・小鳥やかえるの「うた」も、求愛とか、縄張  り主張とか、彼らなりの通信手段・意思表明  らしい。研究によれば、小鳥のうたは複雑な  フレーズから成り立ってはいても、個々のフレーズ  が言葉から構成されているのではないとのことだ。 ・絵画ではどんな色でも使えるのに、音楽が  使う音の音さは、ドレミ……と不連続にデジ  タル化されている。 ・これに対し、イルカ等はサイレンのように連続的に音高  を上下させて意思を疎通させているという。小鳥の  さえずりの音高の変化も連続的である。 ・ピアノはデジタル楽器、のみならず、鍵盤楽器は  デジタル楽器である。 ・鍵盤は英語でいえばキーボードである。キーボー  ドで計算機に指令を出すように、われわれは  鍵盤で楽器に指令を出しているのだ。 ・西洋音楽という系統の音楽には1オクターブ、  例えばドとドの間には白鍵と黒鍵合わせ  て12の音がある。これが音律である。 ・音は空気の振動である。振動が細かいほど  音が高くなる。1秒間の振動数を「周波数」  と言い、放送の電波の周波数と同  様にHz(ヘルツと読む)を単位とする。国際  的な取り決めで440Hzの音を(A)としている。 ・ネタばれについても、簡単にそれができないような機  構を盛り込むことで対処ができる。一言で説  明できないネタにすれば良い。あるいは、人によっ  て解釈が異なるようなネタにする。 ・読者の積極性に期待する。 ・場合によっては音色にごまかされて、オクター  ブ離れていても同じ音と感じることさえある。  これを音楽心理学では「オクターブ等価性」  と言う。 ・もう完全に唾液の味しかしなくなったチューインガ  ムくらいの鮮度 ・カミオカンデみたいな施設を使わないとニュート  リノがなかなか観測に掛からないのと同じだ  よ ・テレビがなぜ映ってるのか、なんて説明できま  すか。説明出来たとしても、それをちゃんと自分  の感覚として理解してますか。ようするにあん  なの一般人にとってはたんなるブラックボックスで  す。中身のわからない黒い箱。それでなんの不自  由もない。そうでしょう? ・現実がシンプルでなくなったぶん、虚構の解像  度も上げざる得なくなった ・抜け殻がなけりゃ、かつてそこに何かが存在  した、なんてことだれにもわからないじゃない  ですか ・ものすごく簡単に言えば光や音を吸収して  しまうんですね。  光や音がこの霧の粒子と相互作用すること  で、そのエネルギーを失ってしまう。しかし、その  エネルギーは消えてしまうわけではなく、別の形  で保存されるのです。霧の粒子の波動に  置きかえられただけだから、ある条件のもとでは  それが再生されるわけです。 ・起点と過程そして結果に縮尺の異なった相  似性が見られる現象を運命という言葉で  具現化するのならば世界は運命の下にあるの  だろう。ただしそれは決して法則などでは  ない。単なる結果だ。根拠もなければ証明  するための方程式もまた存在しない。ここから  導き出されるのは、運命という単なる因果律  の副作用であるという仮説か、もしくは極め  て逆転現象が起こり難いものであるという事  実だけ。今までがそうだったからだと言って、これからも  すべてそうであるとは限らない。 ・フィゾスチグミン  アルツハイマーの治療薬は負担が大きい  ニューロンの発火を促進して記憶を想起する ・他人の命が大事なら、ドナー登録して自殺でも  するんだな ・手術室の叙述トリック ・ブルブルふるえる=マナーモード ・べらぼうにヘル ・物理的除霊 ・同じところばかり繰り返している。同じように  間違えて、また弾いて間違えている。テン  ポが落ちた。ゆっくりになる。確認する  ように一つひとつの音を弾く。 ・江崎は、繰り返し練習をやめたらしい。  最初から続けて曲を弾いている。どこか  で間違えて止まらないかどうか、聴いて  いるとハラハラする。一楽章、音階で時  々モタついたり、音が転がるようになるけ  ど、大きく間違えずに終わる。二楽章  は少しゆっくり弾く。 ・三楽章は、小鳥がちょんちょん跳ねてる  ような、かわいい感じのメロディーだ。 ・自分の感想を言いたくなった。何かを知って  ることより、それをどう思うかが大事なんだ。  覚えてしまったメロディーを歌うように口に  してみた。右手と左手と交互に弾く。きれい  なメロディーのところだ。 ・楽譜は見ていない。最初の音階が続くと  ころは終わっている。あ、ウチが一番好きなメ  ロディーのとこ。ああ、いいなぁ。前より、胸にし  みるような感じに弾いているな。 ・入口近くにいたので、ピアノのそばまで近  寄った。まだ、なんて言っていいのかわからない。  江崎がこの曲をうまく弾けるようになって  嬉しかった。それが聴けて嬉しかった。た  だ、みんなが来なくなった第二音楽室に  江崎が一人だけ来て、もくもくと練習し  ていたことを考えると、胸が痛くなって泣  きたくなった。 ・「中央ハ音がわかるんでしょ?」  「そりゃ、わかるけど」  「それ、スゴイよ」  「そうかなあ?」  「自分の中に、正しい音があるって思えたら、  ウチはすごくいい気分だな」 ・四つの音がぴたりと合った時のこの曲は、信  じられないほど豊かなハーモニーが生まれ  る。音の世界が無限に柔らかく広がる。  心が解放されるような、ふわりと溶けて  いくような、大きな至福感。 ・最初のミの音がかつてなく透明に響いた。  吹きながら、自分自身が自分の出した音の中  に吸われていくような不思議な集中。続  く4度高いラの音がすっきりと出た。トリ  ルがただの飾りじゃなくて、細かい2音の繰  り返しにきりっとした意味がある。 ・男子学生「台風はいいよな。進路きまってて」 ・「お前は見られている」が宗教。  「見られていなくても」が道徳。  「どう見えているか」が哲学。  「見えているものは何か」が科学。  「見えるようにする」のが数学。  「見ることが出来たら」が文学。  「見えている事にする」のが統計学。  「見られていると興奮する」のが変態。 ・「だったら、弱いものが強いものに対して振るう陰湿  な暴力はいじめなどではない」 ・「この者になら裏切られても構わない。そう思える  のが親友だ」 ・ピアノは道具だよ。でも、それを弾く人間は  道具じゃない。 ・決まらないのと決めないのは同じではない。前者  は観測者の意思が干渉を躊躇しているだ  けだが、後者は観測に対して積極的な干  渉を持たないという意思がはっきりしている。 ・強制的な観測によって対象の観測してき  た事実そのものを、滅茶苦茶に上書きす  る。 ・「大丈夫よ晶さん、人の噂も七十五日」  「その前に僕の四十九日が終わる!」 ・オリヴィア・プレスタインは驚くほど華麗な  白人(アルビノ)だった。髪は白絹で、肌は白  繻子(サテン)。爪と唇と眼は珊瑚だった。  すばらしい美貌でおどろくべき盲目だった。  赤外線の七千五百オングストローム(一億分の  一センチ)から一ミリメートルまでの波長だけしか  見えなかった。彼女は熱波、磁場、無線  電波、宇宙探査機および水中探知  機の電波、そして電磁場を見ることができた。  彼女には、居間が暑い光から涼しい影にわたる  熱放射の脈動的な流れとして見えていた。  時計、電話、証明、錠などはまばゆい磁気  的な模様として見えるのだった。人間を顔  やからだから発する熱の様態(パターン)の特徴  によって見たり見わけたりする。人びとの頭のまわ  りにオーロラのようにうかぶかすかな脳電波  のパターンと、肉体の熱放射の閃光、筋肉  と神経の不断の変化の様子が見えるのだっ  た。 ・わたしはずっと先生に教えてもらって、先生の  曲を演奏しつづけてきたの、新しい曲が、  わたしの道しるべみたいなものだったのよ、新  しい景色を見せてもらっているようで、行ったこと  のない場所へ連れてもらっているようで、そ  う、それに知らない人とつぎつぎ出会っている  みたいに、わたしはヴィヴァルディ先生の曲を  楽しみにしていたのよ。 ・ピエタ慈善院は、音楽院でもあって、音楽の  才能に秀でた者は誰からも一目置かれる。 ・私がたくさんの時間と労力をかけてようやく  弾きこなせた難曲を、アンナ・マリーアがやすやす  と弾いてしまう時、努力は虚しくなった。 ・ヴィヴァルディ先生の質問に、楽しいです、とわた  したちが生真面目に答えると、ヴィヴァルディ先  生が、わかるよ、と言った。楽しいですっていう音  が廊下に聞こえたからね。 ・アンナ・マリーアがちょっと首をかしげ、すす、と弾いた。  先生が、ふんふんふんふん、とさきほどとちがう  メロディを口ずさみ、わたしは、あっ、っと思った。  あの時わたしは、先生に、和声のうつくしさ、で  はなく、和声の楽しさを、教えてもらった気が  する。じゃあきみは、こういうふうに弾いてごらん、  とヴィヴァルディ先生が、私に指示した。そ  れは、とてもかんたんなものだったから、わたしも  いっしょに弾くことができた。当然、ヴィヴァル  ディ先生の即興だったのだろう。もっと後なら、  わあ、すごい、と、先生が作り上げる即興の、  眼も眩むような速さ(考える時間はかぎりなく  ゼロに等しかった)と、わたしたちの能力を瞬時  に見極めたうえで作ってしまう曲の質の高さに目  がいってしまうところではあるが、なにしろ幼かった  から、ただただ、三人で合わせる音の楽しさに、わ  たしは夢中になった。和声のうつくしさは、楽  しさあってのものだと、今でもわたしは思う。ヴィヴ  ァルディ先生は、ともかくそんなふうに、呼吸  するみたいに、なにかを吸い込んだら、吐き  出す時には、すべてが音楽になっている人なの  だった。 ・わたしの耳は、いつでも、たくさんのものを聴く。  演奏家の心も。それから作曲家の心も。 ・ヴィヴァルディ先生のことを悪く言う人もたくさんいた  し、アンナ・マリーアのことを悪く言う人だっていたが、  わたしはアンナ・マリーアの心も、ヴィヴァルディ先生  の心も演奏を通じてよく知っているから、い  つも信じられた。わたしにこの力をお与えくだ  さった神に感謝する。 ・あの方は、あの方のほんとうのお気持ちや、ほん  とうのお心持ちの説明を、曲を通してしか出  来ない方だったのかもしれない。 ・ヴィヴァルディ先生は、日々、呼吸うるみたいに、  曲を書いた。彼にとって、音楽を作り出すこと  は、生命維持のための呼吸と同じよう  に重要で、尚かつ、呼吸と同じように自然  なことであったのだ。 ・彼らには本当のところがなにもわかっちゃいな  い。ピアタがそれだけ、ヴィヴァルディ先生に助  けられてきたか、先生のお作りになった曲の  恩恵を被ってきたか。 ・わたしたちは孤児よ、アンナ・マリーアが微笑ん  だ。もしかしたら、運河に捨てられていたら、わたし  はヴァイオリンを弾けなかった。うつくしい音楽に  出逢えなかった。わたしは、どんな人に産んでも  らったのか知らない。だから、わたしを生んだの  は、そす、そしてわたしを育んだのは、ピエタの  音楽なの。わたしはピエタの音楽から生まれたの。  ピエタはいつも音楽でいっぱい。わたしはね、  それがとてもうれしいの。うれしかったの。うつく  しい音楽に満たされた場所にいられたこ  とが。いつでもうつくしい音楽がたくさんある  場所で、わたしはとても楽しかった。音楽には、神の  声がした。 ・そうね、わたしたちはピエタの音楽に育てられたの  よね。どんな時も、空気みたいにそれがあった  から、気づかなかったけれど、わたしの心を癒  したのはピエタの音楽だったのかもしれない。 ・わたしやアンナ・マリーナは、幸せな孤児だっ  た。ここに捨てられて、幸いだった。それをよ  く知るわたしたちだからこそ、捨て子を育  む、この、音楽の揺りかごを壊してはなら  ない。 ・あの譜面がいつかまた、誰かの役に立つかも  しれないなんて思いもしなくて、これはわたしし  か使わない、わたしだけに作られた、一度  きりの譜面なんだと思い込んでしまったの。 ・譜面は貴重な財産だと、ピエタの娘たちな  ら、よくわかっている。 ・「何もないところで何もないと言う。それは真実。  すると、どうなるでしょう。どこにも何もないとい  う錯覚が起きる。呆れた目くらまし」 ・彼にはもう、なんにもいらなかったんでしょう。た  だ音楽とともに旅立てればそれでよかった  のよ。もしくは、彼の身の内からあふれでる音  楽を心ゆくまで奏でたかったのでしょう ・音楽を作るとき、あの人は孤独だったでし  ょう。わかるわよね? あの人は曲を書き始  めると瞬時にして孤独になる。たったひと  りだけで、どこか知らない場所にいってし  まう。そこがどういう場所だか、わたしには  わからない。わたしには行けないもの。連れて  いってはもらえない。そういう時のあの人は、  するりと、そう、まるで、こういう硬い石の中にで  も入りこんでしまったかのよう。その瞬間をあの  人は好んだ。あの人が心底好んでいのはそ  れだったのよ。だれよりも。アントニオが最終  に求めたのはそれだったと思うわ  あの人はただの石ころになりたかったんでしょう。美  しい美しい音楽を奏でるただの青い石ころに ・ようやく火が熾(お)きると、アンナ・マリーアがさっそ  く手をかざした。アンナ・マリーアの白くほっそりした  指がふわふわと、見えない楽器を弾いている  かのように動く。ただ暖かい空気を求めて  動いているだけなのに、アンア。マリーアの指の  動きは美しい。それが指の長さのせいなのか、  指の形のせいなのか、それとも動きそのものか  ら醸し出されるものなのか、わからない。 ・ピエタの娘が、長じてその生まれを嘆くというの  ならよくある話だ。実際、そういう悩み  を持ち、塞ぎこんでしまった娘たちの相  談にのってやったこともある。けれど、ヴェ  ロニカのように恵まれた貴族が生まれを  嘆くなど、どう考えたらいいのかわたしに  はわからなかった。 ・視覚と聴覚は処理時間がズレる。何  の問題かというと、おそらくシナプスの数です。 ・視覚にないものは何かそれは「時間」です。その  代わり、空間が前提になる。一方、聴覚に  ないものは何か、「空間」です。 ・音楽から影響を受けることができる能力なんか  測りってませんものね。それが感性とか感受性という  ものですが、感受性は測りようがないクオリアの領域  に入ってしまいますから。 ・音とか音楽を耳で聴いていると思っています  が、振動をからだのいろいろなところで聴い  ているので、必ずしも耳だけで聴いているわ  けではありません。 ・情動というのは実は脳でいう古い部分、「爬虫  類の脳」といわれている「大脳縁系」というんで  すけど、そこにかなり大きな影響を与える。実は、そ  れが一番遠いのは目なんですよ。目は非常に客観的。  だから、見て感動するより、聴いて感動する方がよ  っぽど多いんです。 ・音楽を構成する要素は、「メロディー」と「ハーモニー」  と「リズム」です。「リズム」というのは刻んでいくわ  けですから時間の上に成り立っています。「ハーモニー」  は響きです、その瞬間、瞬間を輪切りで捉える、  いわば空間把握ですね。ではメロディーは何か。  時間と空間の中の「記憶装置」なんです。 ・自分にとってよいピアノはまず鍵盤のタッチのよさ  が目安になる。 ・デジタルの世界では構築性しかない。並べて積  んでいくしかない。 ・音程もリズムも修正されて人工的なデジタ  ルデータとして加工されたものが、はたして音楽  といっていいものなのか ・視覚に表れるリズムって「螺旋」なんですよ。 ・鳥は絶対音感なんですよね。 ・絶対音感というのは、どうやら「聴覚野」では  なくて「言語野」で覚えている。 ・それぞれの音、音ないしはそれぞれのパッセー  ジが、ある種の必然性をもって組み上がる  ことが、良い作品になっている。 ・「今の医者は、教科書どおりの症状が来れば何  とかするけど、教科書から外れたら何もできな  い」と。だから、僕は講演の時に「皆さん、く  れぐれも教科書から外れたケガはしない方がい  いですよ」 ・「わたしの血流中に棲む共生生物たちは、二酸  化炭素をいくらでも酸素に戻すことができる。  そいつらは、わたしの皮膚ごしに日光からエネルギー  を獲得し、不要なグルコースをありったけ放出  する――だが、それだけではわたしたちが生きて  いくにはとうてい不足だし、共生生物たちも暗い  ところでは代替エネルギー源が必要だ。そこで、わ  たしの胃と腸にいる共生生物たちが登場する。  わたしの中には三十七の異なる種がいて、こいつらは  たがいのあいだでどんなものでも処理できる。  だからわたしは草を食べられる。紙でも食べられ  る。」 ・ウィルスはDNAまたはRNAでできていて、地球上の  ほかのあらゆる有機体と同じ基本的な科学的  性質を共有している。ウィルスが人間の細胞を  乗っとって生殖できる理由は、ここにる。だが、  DNAやRNAは科学的にまったく別種の物質で  作ることができる――通常のものの代わりとなる  非標準の塩基対を使って。遺伝暗号を書  くための新しいアルファベット。グアニンとシトシン、  アデニンとチミン――GとC、AとT――の代わりに、  XとY、WとZを使うわけだ ・仮にあなたがわたしを、“人間性を欠く”といっ  て非難したとしましょう。それがじっさいに意  味するところとは? いったいなにをしたら、そんな  ふうにいわれるのか? 平然と人を殺したとき?  子犬を溺死させたとき? 肉を食べたから? ベ  ートーヴェンの第五番に感動しなかったから? そ  れとも単に、人生のあらゆる局面であなたと寸  分違わぬ感情をもてない――あるいは、もとう  としない――からですか? あなたの価値観  と目標のすべてを共有できないから?  答えは“そのどれでもありうる”。 ・2つの意味で「お前医者に行けよ」 ・そんなふうに色を思い浮かべようとして幾つもの  曲を聴いてみたが、よくわからない。この曲は、な  んか水色っぽいな、とか、せいぜいそんなもの  だ。音楽と共に色の洪水が頭の中を流  れていったら。それは快感なのか、恐怖なの  か。麻薬体験のようなものなのか、オーロラでも  見るようなのか。そうえば、オーロラを見て  発狂しそうになったって人がいたっけな。 ・あいつのオルガンの音は、なぜか、よく聞こえ  る。響くのだ。礼拝で、生徒が着席するま  でに弾く簡単な曲。、こんな音はふつう意識  しない。なのに音が頭を素通りせずにしみる  ように響く。 ・テンポはごくごくゆっくり、鍵盤はしっかりと優  しく押さえる。どんあに工夫しても、どうして  も鳴らない音がある。弾いても鳴らない鍵  盤というのは、奇妙な恐怖心を引き起こす。  わかっていても、弾き手としてのミスだと瞬間  的にまず思う。ミスじゃないと理解したとた  ん、、何か暗い深い穴に落ち込んだ気になる。  虚無の感覚。死――の感覚なのかもし  れない。短い感覚だ。何か暗いものが一  瞬かすめるだけで、もう指はなる鍵盤  を弾いているし、曲は進行していく。 ・光よりは闇として。  暗い音として、刻みつかられている。  存在の根底を揺るがすような不安な音。  つかみずらいリズム。  不思議な音の流れ。  重く重く重くかさなる音。  長く長く長く伸びる音。  あるいは、鳥のさえずりをそのまま表現する、高い細かい音。 ・冒頭の迫力ある低音の長い響き、一転し  て浮遊感のある美しい旋律、シャープな  和音、高い細かい音の連なり――母の指は見  たことがないほど力強く鍵盤を押し込み、  めまぐるしくかけめぐった。次々と印象の変  わる音の世界の中で、俺はふわふわ浮かん  だり、揺さぶられたり、転がされたり、激しく  叩かれたりした。地に足がつかない感じ。よ  りどころがない感じ。異次元に放り込まれ  たような、未知の、神秘な、不安な感じ。  最後の壮大な重い重い長い長い音のかた  まりに打ちのめされて、乗り物に酔ったよう  に気持ちが悪くなった。 ・そして、頭に詰めこんだ音を、少しずつ、ゆっくりと  自分で鳴らしていく。まずは手だけで、足は  後から。自分が出す音に、ここまで自信が持て  ないのは初めてだった。こんなふうだけど、これ  でいいのか? こういう感じか? いいのか? ほんと  か? こうか? 俺は耳で聴いた音をすぐに記  憶するし、譜面を読むのも早い。いつもは、  オルガンでもピアノでも、初見で、ある程度、  弾けるんだ。なんなんだこの曲は、この楽譜  は! ・――メシアンで論文を書いたのよ。『神はわ  れらのうちに』は、私がメシアンを初めて弾い  た曲なの。音大のゼミでね、課題で。曲と格  闘する感じだったよ。なかなか曲に近づけな  いの。とても遠く感じるのに、弾いている時  は、曲に自分が飲みこまれてしまうような恐怖を  感じている。曲が大きすぎて自分が小さい。壮  絶な戦い。 ・音楽は記憶をなまなましく再現する。それは  映像的なものより、むしろ、感情的な領  域だ。その音楽にかかわっていた時、弾い  ていたり聴いていたりした時に感じていたこ  と――心の中身――喜びや悲しみや悩みや  揺らぎやあらゆるものを濃く細かくそのままに  思い出す。 ・真ん中へんが一番難しくて、そこだけは、ぜんぜん  駄目。楽譜の3pの最後のほうから6pの  終わりまで。右手、左手、足と、テンポが全部  バラバラ。けっこう速く弾くし、信じられない  ほどむずかしいかわりに音は地味だし。絶対に  やっている奴じゃないと、ここ、むずかしいってわかんええ  んだろうな。 ・後輩の練習というより、普通に音楽として、  俺はしみじみと聞き入っていた。それくら  い、胸を打つ、美しい音を彼女は出してい  た。……途中まで。テンポが変わる後半  の部分。突然、別人のような演奏になっ  た。ぜんぜん弾けてない。天野は必死で楽  譜をにらみながら、止まったり、つっかえたり。 ・「音大に行くとか、プロの弾き手になるとか、そう  いう具体的な話じゃなくてね」  俺は天野のデカい目をしっかり見て言った。  「あんたは、演奏者だと思うね」  「エンソウシャ?」  天野は片仮名のように繰り返した。  「そう。生まれながらの。そういう奴はめったにい  ないよ。楽器を鳴らす人なんだよ。俺は違  う。俺のまわりでそんなふうに思えるのは、天  野だけだ」 ・あの頃の俺は、まっすぐな気持ちでピアノを弾  いていた。その音を天野が記憶していて  くれるなら、その音を心に刻んで、今、彼女が  バッハを弾いているのなら、そう、嬉しい。とても、  嬉しい。 ・音的には、だいぶ、まともになった。少しは曲ら  しくなってきた。最初から最後まで、十分く  らいかかるこの難曲をそれなりに引き通す  と、ものすごい達成感だし、ザマミロと思う。  でも、なんというか、そこから先に行かない。  だた、音符をなぞっているだけのような気が  する。まだまだ、練習が足りない、弾き込みが  足りない。それは、そうなんだけど、もしかすると、  手や足の訓練じゃなくて、心や頭の問題  なのかもしれないと思うと、萎える、落ち込む。 ・俺は、すべての音が、音符として聞こえる。車のエ  ンジン音、今発車したあの車のエンジン音は、低  いレのシャープから、ミに移行。背後を通り過  ぎた女の人のハイヒールの音は、ソ、なぜか三拍  子、ワルツで歩いている。歩道で急ブレーキをか  けたあの自転車、高いシ、クレッシェンドで。 ・夏休みの間、俺は外にぶらりと出た時、五線  譜を持って行き、聞こえた音を音符にした。画  家がスケッチをするようなものだけど、たぶん、そん  な奴はめったにいない。世界がどんな音で成  り立っているのか――そりゃ大げさだ。身のま  わりに、どんな音が鳴っているのか。実に雑  多だ。 ・たまに、気分が落ちこんだ時、すごく無感覚に  なることがある。だって、本当に本当に本当に  本当に確かなことなんて、この世にあるのか?  こうして生きている俺、俺の肉体、俺の精  神、俺が手を触れられるもの、感じ取  れるもの、これら、すべてが、なぜ、確かに存在  すると証明できる? ・精神と卵子の結合は理解できても、生物の  進化は認められても、そもそも、その始まり  のことは、誰も知らない。素粒子レベルまで  分解しても、宇宙の果てまで広げても、俺の  頭は簡単に行き止まりだ。神がすべてを  作ったのだと思わなければ、何もわからない。 ・何も信じられないのだが、信じたフリをできるも  のが一つだけある。  音――だ。  俺の耳に聞こえてくる音。その音を記号として  定めたもの。長さと高さを定めたもの。五線  譜に記せるもの。そういう音を並べて作った  音楽というもの。 ・パイプオルガンは、世界中で、ただ一つも同  じものではないと言われているくらい、個々の  特徴の差のある楽器だ。仕様が同じもの  でも、置いてある場所によって、まるで、響きが  違ってくるのだ。 ・年齢も性別も小動物っぽさも一気に消え  て、何かりりしい妖精みたいな印象になる。  妖精は俺たちに魔法をかける。  いや、魔法――という感じじゃないな。魅了さ  れるというよりは、音に侵食されるような気が  するんだ。耳や脳で聴くというより、細胞にし  みていくような音なんだ。 ・静かな感じで天野は弾き出した。右手で弾く  16分音符、左手はアクセントのように……音が  きれいだ。ああ、最初のへんで、俺が好きなと  こ、右手の最高音が4分音符でなだらかに続  くとこ――右手の下の音、左手の和音、足鍵盤  と音は融合するのだけど、一番高い音を印  象的に美しく響かせて歌っている。こういう音  の響かせ方が天野は抜群にうまい。 ・いや、美しい音を、ただ、それだけを信じている。  それを生み出す人びとを。 ・ここから、また、強い和音が続いていく。重厚に  キレのいい音を響かせる。ここは弾くのが楽し  い。好きなところだ。このオルガンは、電子オルガ  ンより、自分が弾いたとおりに鳴るような気  がする。ちゃんと弾ければ、イメージした音がその  まま鳴ってくるような気がする。弾きながら、  自分の音を聴く。聴きながら、弾く。 ・今、弾いた音は、もうどこにもない。  音は、生み出したと同時に消えていく。  生まれて必ず死ぬ人間と同じ。  記憶だけが残る。 ・「自閉症に関連する脳の組織は、左前頭葉  の小さな部位を占めています。個々の他人に  関するこまかな記述は、あらゆる記憶と同様、  脳全体に散らばっていますが、この組織は、そう  した記述が自動的に結合され解釈される  唯一の場所です。もしそこが傷ついたら、それ  でも他人の行動を認識し、記憶することは  失われます。もしそこが傷ついたら、それ  でも他人の行動を認識し、記憶すること  はできますが、そのそれぞれから特別な意味  は失われます。それぞれの行動を認識し、記  憶することはできますが、それぞれの行動が以前と同  じ“明白な”合意を想起させることはなくなります  し、以前のように即座に意味をなすこともありま  せん」 ・また愛情の対象者も、性的なパートナーに  限りません。愛情とは、自分が愛している人々  を、自分自身を理解できるという信念にほかならず、そ  の信念をもてば脳から快楽という報酬を  もらえるわけです ・ATM(全位相モデル)の基礎概念は、言葉にすれ  ば単純だ。宇宙の最深レベルには、数学的  にありうる位相をひとつ残らず混合したものが  存在する、と考えること。  重力場の量子論の最古のものでさえ“真空”す  なわち空虚な時空を、沸騰する仮想ワームホー  ルの塊――とほかのもっとエキゾチックな位相のゆが  み――がいきなり存在したり消滅したりして  るもの、と考えていた。巨視的な長さや人間の  タイムスケールでのその見かけがなめらかなのは、  不可視なレベルでは複雑な混乱した状態  なのを、可視レベルで平均するとそうなるだけの  話。ふつうの物質にたとえれば――可撓(かとう)  性のプラスチック板は、肉眼では分子、原子、クォー  クといった微細構造はまったくわからないが、  そうした構成要素に関する知識があれば、  大きな物質の物理的特性(弾性率など)  が計算できる。時空は原子でできているもので  はないが、連続しつつゆるやかに湾曲している  見かけの状態から、より複雑に逸脱した状  態へと順に層をなすかたちで“組み上がってい  る”と見なせば、その特性を理解できる。  たとえば量子重力はこうして、無数の不可視の  結び目や迂回路に下支えされた観察可能  な時空が、質量(またはエネルギー)を前に  して、なぜいまあるようなかたちでふるまう――  重力を生むのに必要なまさにそのかたちに湾  曲している。 ・S=1−1+1−1+1−1+1−……のとき  S=(1−1)+(1−1)+(1−1)+……   =0+0+0……   =0  しかし、  S=1+(−1+1)+(−1+1)+(−1+1)……   =1+0+0+0……   =1 ・親石性バクテリアは、ステートレスが穴のあいた  肺のようにつぶれて、水をたっぷり含んだス  ポンジのように沈むのを防いでいる。自然界に  存在する有機物の多くは気体を作るのが  得意技だが、そのとき排出するのはむしろ、地  面から大量に漂いだしたらいやがられっるだろ  うメタンや硫化水素のような生成物だ。だが  親石性バクテリアは水と二酸化炭素(大部  分が水に溶けている)を吸収して、炭水化  物を酸素(大部分が水に溶けていない)  を作る――バクテリアは“脱酸素”炭水化物  (たとえばデオキシリボース)を作りだし、吸収した二  酸化炭素よりも多くの酸素を放出するので、  差し引きで浮力を増加させる。 ・ホイーラーは参加方式の宇宙――宇宙は、それを観  察し説明する居住者によって形作られる―  ―という発想を提唱した偉大な人です。  答えとなる物を思い浮かべないままゲームをはじめるの  。そして質問にはいくらかランダムに“イエス”か “ノー”で答えていく  ホイーラーは宇宙そのものが、この遊びかたでの  未定義の物体と同じにふるまっていると提唱  した ・物理法則はランダムなデータの中のパターン  ――無矛盾性――から姿をあらわす。でもも  し、観察されることなしには、ある事象が発  生しないとしたら……理解されることなしには、あ  る法則は存在しないことになる。だけど、だと  したら疑問がわかない? 理解されるって、だ  れに? “無矛盾性”の意味を決めるのは、  だれ? “法則”がどんなかたちをとりうるだとか  ――なにをどうしたら“説明”になるかを決  めるのは、だれ? ・「人はときどき、なにかを知ったと思うだけで、それを理  解したと思ってしまう。だが、自分の目で見るまでは、  それは現実にはならない」 ・生まれながら一度も赤色を見たことのない人間が、赤  色のついた夢を見ることは絶対にない ・ド   ……赤色  ド#  ……紫色  レ   ……すみれ色  レ#  ……濃い青い色  ミ   ……黄金色(太陽のごとき色)  ファ  ……ピンク  ファ# ……青緑色  ソ   ……青色  ソ#  ……明るい空色  ラ   ……澄んだ黄色  ラ#  ……橙色  シ   ……解明な銅色  ここに記した以外の低音や高温域、和音などの  組み合わせによっても色は変化する。もちろん個  人差はあるが、基本的に万人が共通して持つ  感覚とみていい ・「音楽ってみんなでやる面と個人の戦いという  面で、それぞれ考え方が大きく異なるんだよ。  プロを目指すなら大抵は後者だ。レベルアップ  のための環境を吹奏楽部におかないだろ  うし、楽器をさわったきっかけが家庭内なら、部  活動で練習するのはなおさら辛いと思う」  「どうして?」  「学校の吹奏楽部は、そこではじめて楽器をさ  わるひとや、音楽の教養がとくになくても楽  器を吹いているひとが大勢いる。どう自分が上  手く演奏しても、自分よりはるかに格下のみん  なが上手くならないと認められない。交響楽  団なんかはソロ技術が高くても評価される  けど、吹奏楽はそうはいかないんだ。彼女にとって  耐え難いと思うよ。しかも技術が一番伸び  るといわれる十代半ばからの大切な時期を奪  われるのは……とか考えたりもする」 ・学校からもらった金なんて、目の前でミキサーに  かけるような連中だ。 ・宝石の価値を知るための物差しは、年齢でも  ないんです。宝石を照らす太陽の光なんです。  石自体が美しいんじゃなくて、太陽の光をさら  に光に変えてくれるんです。外の世界でひどい  目にあったり、絶望したら、光の見え方を自分た  ちで変えてみろって教えてくれたひとがいるんで  す。 ・キーン・コーン・カーン・コーンは  『ウェストミンスターの鐘』という立派なクラシック ・プルースト効果というものがある。ある匂いを嗅  ぐと、昔の思い出がはっきりと頭に浮かぶ現  象だ。匂いに結びついた記憶はかなり強  いもので、文字や味や色や音などとは比較  にならないといわれているほどだ。 ・いわゆる拒絶反応である。これを避けるため  の方法としては、できるだけ自分と近いHLA型  を持つ臓器を使う方法と免疫抑制剤  を使う方法がある。HLA型については双子  以外では親兄弟といえども完全に適合す  るとは限らず、ましてや他人に至っては一致す  るのは非常に低い確率でしかない。また、免  疫抑制剤についても、人工的免疫不全にす  るわけだから、当然予想されるように副作  用がある。したがって実際にはこの二つの方法  を組み合わせることによって欠点を補おうとす  る努力が払われることになる。 ・免疫はどうやって体内に入り込んだ異物を自  分自身の組織を区別するのか? 実は自分の  細胞にはちゃんと目印がつている。それは  組織適合抗原と呼ばれている。人間の  場合HLA抗原という。血液に型があるよ  うに、HLA抗原にも型がある。しかも、ABO  式の血液型のような単純なものでは  ない。 ・人の遺伝子を動物の細胞に組み込むことは  ある特定の機能を発現する目的にのみ許されて  いる。例えば、HLA型決定遺伝子やある種の  酵素やホルモンを作る遺伝子がそれにあたる。 ・「人格って何かしら? わたしの脳の右半分をあな  たの半分と取り換えたら。わたしはあなたに  なるの? それとも、わたしのまま? 人間の意  識の座は脳のどこにあるのかしらね?」 ・ああ、この音だ。この音を求めて、わたしは今までの生  涯、音楽を聞き続けていたのだ。だが、何か  本物に似ているところはあったにはあったが、今  まで聞いたそれらの音楽は全部紛い物だっ  た。わたしは僅かに似ている部分に引き寄せ  られただけだったのだ。もう、この音楽だけで  いい。音楽家たちはきっと、生まれる前にこの  音を聞いていたのだろう。そして、なんとか、それ  を思い出そうとして曲を作り、演奏し続け  る。しかし、それらの音楽も今わたしを包み込ん  でいるこの調べと比べれば、雑音よりほんの  少しましなものに過ぎない。みんな、不完全な  音楽を音楽だと思い込んでいたのだ。今や、わ  たしは完全な音楽はただ一つしかないことを知  った。聞くだけで、エクスタシーに達するこの音こそ、  唯一の音楽なのだ。 ・時間芸術は実演の芸術であるために、保存  することはできない。――もちろん脚本や楽譜  は保存可能だが、それらは演劇や音楽の一部  分に過ぎない――一世一代の名演奏、名演  技を行なっても、それを残すことはできない。ただ、  その場の観衆の記憶に残るだけである。そし  て、人間の記憶とは極度に曖昧な記録方  法なのである。だから、別の演者の公演との比較  が公正に執り行えているのかは確かめようがない。  いや、それどころか同じ演者が別の日時に行った  公演との比較さえ定かではない。tだ、人々の記  憶に頼るばかりだ。  そして、芸術家たちは演じることをやめる。病  気になるか、情熱を失うか、怪我をするか、演  ずることを禁じられるか、死ぬかだ。しばらくの間  は人々の記憶に残るだろう。しかし、時がた  てば、記憶は薄れる。そして、最後には記憶者  たちも死に絶えてしまう。彼等の芸術は後世  には伝わらない。残るのは芸術そのものではなく、  評判のみだ。 ・「今の風……ラの音を奏でました」 ・この領域は、主に六個の遺伝子配列の繰  り返しで成り立っている。DNAの鎖の上に、六連  符が繰り返し並んでいるんだ。 ・生身の演奏家だけが、作曲家や指揮者の  意志を超えることができるんです! ・音は波形。  波形は、空気を伝わる。ゆえに、真空状態では  伝わらない。  ただし、空気抵抗によって、いつか音は途絶える。  絶わりの無い曲が存在しないように。  だから、終わりの無い生命も、存在しない。 ・「1/f」のゆらぎ  小川のせせらぎみたいな、心地のいい音と周  波数のゆらぎが共通している。 ・この「音楽とは現象である」という考え方を、  私は指揮者セルジュ・チュリビダッケの思想  から学びました。チュリビダッケによれば、音楽  とは一回きりの現象です。彼は生前、ライブ  録音の販売を頑なに拒んだそうです。判  然、予(あらかじ)めメディア化を前提としたスタ  ジオ録音などは論外でした。彼の音楽とは、  ライブでしか表現不可能なものだったのです。彼  にとって、音楽という一回きりの現象を反復させる  という行為は忌避すべきものだったのです。  そして、かの巨匠亡き今、私は思うのです。  一回きりの現象であり、反復不可能であるとい  う意味において、音楽とは生命現象そのもので  あり、生命と音楽現象そのものではないか、と。 ・そなの知らない曲だけど、右手が奏でる美しいメ  ロディと、左手が奏でるゆったりとしたアルペジオ  が、そなの心を捕まえて離さない。 ・まるで最初から完成していた曲のように、柚葉  の指がイントロを奏でる。小川のせせらぎを思わ  せる、静かな演奏だった。流麗なメロディに、  優しさを感じさせる和音が重なる。 ・バファリンから優しさを取り除いたかのような、  薬効成分百パーセントの微笑みだった。 ・一つの旋律線が複数の声部に分かたれ、和  声の糸に編み込まれる技法を多用し、そのた  め旋律が埋没しくすんでしまう傾向はあ  る。しかしそれはシューマンの企みなのであり、彼  の狙った対位法的効果を十全に発揮で  きない演奏者が無能なのだ。 ・「鼓膜を震わせることだけが音楽を聴くことじゃ  ない。音楽を心に想うことで、僕たちは音  楽を聴ける。音楽は想像のなかで一番くっき  りと姿を現す。耳が聴こえなくなって、ベートーヴェ  ンはよりよく音楽を聴けるようになったんだ」 ・いくぶん高めの椅子に座り、両腕を鍵盤  に向かってやや突っ張るようにした姿勢と、僅  かに左へ傾けた首の形を想うことができる。速  い楽句(フレーズ)を軽やかに粒だてようとする  ときには、すっと尻を後ろへずらして大勢を  低くし、強くオクターブのユニゾンを叩き出そう  とすれば、尻を浮かせ、ほとんど立ち上がるよ  うな格好で上から指を鍵盤に振り下ろ  す様子を想うことができる。難所にさしか  かっては、何事か納得するかのように頭を小  刻みに上下させ、カンタービレでは、音の流れに  抗うかのように、渓流の岩さながら躯を  一所に固差させたまま、音楽に集中する永  嶺修人を想うことができる。 ・「実際に演奏すれば、どんな名手だってミスタッチ  はする。それは避けられない。実際にどんな  音を出したかなんて、どうだっていいんだ」  「だったら、ピアニストはどうしたらいいんだろう?」  「簡単なことさ」と修人は、諧謔(かいぎゃく)と冷笑  が一緒になった表情をすいと取り戻していった。  「弾かなければいいのさ」 ・「ジューマンの曲はどれもそうだけど、一つの曲の後ろ、  というか、陰になった見えないところで、別の違  う曲がずっと続いているような感じがするんだよ  ね。聴こえてないポリフォニーというかな。音  楽を織物に譬(たと)えるとしたら、普通は  縒(よ)り合わさった糸が全部見えている。な  のにシューマンは違うんだ。隠れて見えない糸  が何本もあって、それがほんのたまに姿を見  せる。湖に魚がいて、いつもは深い所を泳いで  いるんだけど、夕暮れの決まった時間だけ水  面に出て来て、背鰭(せびれ)が湖に波紋  を作り出す、というような感じ。そういうふうにシュ  ーマンは作っているんだよ」 ・「リズムなんだ。結局はリズムのせいなんだ。たと  えば、この第六曲の八分の六拍子、右手と左手  のアクセントが全然ずれてる。まるで違う曲が混  ざり合ってるみたいだ。こんなことをするのはジュー  マンだけだよ」 ・僕が弾くわけないさ。だって、弾く意味がな  い。音楽はここにもうある。  僕はもうこの音楽を聴いている。頭のなかでね。  だったら、いまさら音にしてみる必要がどこにある? ・パーキンソン症候群  手指の麻痺などの症状 ・「だけど、演奏しないと、つまり音にしないと、意味  がないと考えているのが、あの人の限界だ」 ・ピアノの練習は、スポーツと同じく純粋に肉体的  な、メカニカルな鍛錬が少なからぬ部分を  占める。いわゆる西洋のクラシック音楽は、ほと  んど曲芸と呼びうるほどの技術も器楽演  奏者に要求するのであり、ピアノを弾くのに適した  筋力と柔軟性と俊敏性を獲得するに  は、毎日欠かさぬ長時間の練習が必要であ  る。「練習の虫」という言葉があるけれど、私の  知る限り、「練習の虫」でないピアニストは存在  しない。 ・「ピアニストなんて、音楽の奴隷みたいなものさ」 ・意表をリズムや転調に彩られた、ふいに現れたか  と思えばふっとまた消えてしまう、微睡(まどろ)  みに見る夢のような音楽は、一方で構築への  深い配慮に支えられて、ただの寄せ集めでは  ない統一感を実現している。伸びやかに、奔放  に、ほとんど自分勝手に運動すると見える音た  ちは、細いけれど強靭な撚(よ)り糸でもって結び合わ  されているのだ。 ・綴りの音名を使った音楽作りは、作品一の  《アベック変奏曲》で早くもなされている。これは  マンハイムの裕福な商人の娘であったMeta A  beggの姓からとったA-B-E-G-Gの音列から主  題を作ったものだ。もっとも、こうしたやり方は  べつにシューマンの発明ではない。たとえば、バッ  ハは、自分の名前を綴り、B-A-C-Hからなる  音列を、《フーガの技法》で主題の一つとして  使ったし、《マタイ受難曲》にも登場させてい  る。 ・「音楽はいまも聴こえている。それはいまもここにあ  るよ。耳を澄ませば聴こえる」 ・それは一種のアナリーゼなんだけど、よくあるアナ  リーゼとは違うんだ。モチーフの発展だとか、和  音の連結だとか、そういったこともいちおうはやる  んだけど、それより、僕が譜面を読んで行な  っていろいろ心に浮かんだことだとか、連想した  景色だとかと、詳しく書いて行く。 ・私がグルードの話に衝撃――というほど大袈  裟ではないが、或る種のショックを受けたのは、  私が録音を生演奏より一段低いものと  見なし、逆に一回限りの演奏の「神聖性」  への信仰を、どこかで保持していたからだろ  う。もしも切り貼りでいいのだとして、その思想  を押し進めるなら、人間ではなく、機会が演  奏するのでかまわないということになってしまわな  いか? もしそうなった、私が懸命にピアノを練  習する、その意味は失われてしまわないか? 百メー  トル走の選手が0.0一秒でも記録を伸ばそ  うと努力しているときにオートバイで走っていいことに  なったらどうする? ・一人称の思考、行為を潜在的に表現できるよ  うな(状況の経過を無意識的に理解できるよ  うな)軽い文章の駆使 ・客観的な事実としては一瞬で終わるシーンでも  臨場感ある厚みのシーンになるシーンになると  思うので、そういう文章を書けるように心掛ける ・「シューマンがピアノを弾く――シューマンは即興  演奏が好きだったみたいだけれど――そ  のとき、シューマンは実際に出ている音、つまりピ  アノから出ている音じゃなくても、もっとたくさ  んの音を聴いている、というか演奏している。  極端にいうと、宇宙全体の音を聴いて、そう  いう意味でいうと、ピアノから出る音は大したもの  じゃない。だkら、シューマンは指が駄目になっ  たとき、そんなに悲しまなかった。だってピアノを  弾く弾かないに関係なく、音楽はそこにあ  るんだからね」 ・音楽は必ずしも「音」にならなくてもよいのだ――。 ・ピアノという、妙に不恰好で、融通の利かな  い、ときに粗野ですらある器械 ・それでも、やや高めの椅子に座って、上から睥睨  する姿勢で鍵盤に向かうピアニストの姿が  闇に浮かんでいるのは、天井の円蓋の窓から  月の光が差し込むからである。白い光の帯  が幾筋も降り落ち、黒塗りのベーゼンドルファ  ーをピアニストの黒い髪を、微細な光の粒が  おおいかかるように光らせている。 ・冒頭から続く左手のアルペジオを、月下のピ  アニストは、驚くほど平明な、リズムに余分な  揺らぎのない正確さで鳴らし、その手触りの  よい天鵞絨の敷物のうえで、右手のオクターブの  主題から、それと一繋がりになったハ短調の  第二主題へ、さらにそこから派生したニ短調  の旋律――シューマンが手紙で「私の一番好き  な旋律」と書いた――へと続く一連の流  れは、十分な音量はあり、また一つ一つの音の輪  郭は鋭利に際立ちながら、磨き込まれた  木肌の艶やかさと暖かみを放つ。 ・コッっとペダルが踏み戻される音がして、金属弦  は振動をとめた。音楽は消えた、充溢する  余韻を残して、音楽は虚空に消え去り、もう  二度と取り戻せないのだと、しかし決して喪失  感ではなく、それはそうあるべきなのだと深  い確信が胸に漲(みなぎ)ったとき、第二楽章  冒頭のアルペジオが決然と鳴り渡った。 ・A♭に転調して現れる冒頭と同じ音型のアルペ  ジオ。そこからやや動きのある第二主題へ。調  性がA♭からFへ、FからDへ、DからGmへと、小  刻みに変化をつけながら渦を成す音楽は、  自分は決定的な何かを聴き落としつつある  のだという、いわれのない焦燥感に浮き足立つ  私の傍らをするり擦り抜けて、二度と取り  返せぬ彼方へ次々と去ってしまう。 ・「クララの動機」が密かに織り込まれながら、  音楽は絶頂へ向かって小刻みに動いていき、  やがて再び勝利の合唱が、今度は、ペダルで  保持される低音Cの堅固な土台に支えられ  て、フォルテッシモの指示の下で打ち鳴らされ  た。 ・指が鍵盤からつと離れ、コッと音をたててペダ  ルが踏み戻されれば、音楽は消える。二度と  取り戻せない、久遠の場所へ去ってしまう。 ・けれども、私は一度諦めた地点から、逆に開  き直った。下手でもかまわないではないか。どのみ  ち人間が演奏するのであれば、どんな名手が  弾こうが完璧はありえない。「音楽」はすで  にこの世界にあるのであり、演奏されるされない  などは本質の問題ではないのだ。私は、お  ぼろげながら「音楽」の存在を感じており、つ  まり私がピアノを弾くのは、私が「音楽」に  一歩でも近づくための、他に無数にある方法  の一つにすぎない。――と、このように私は考え、つ  まり私は、他の誰でもない、私自身が「音楽」の  美神に触れるためだけに、《交響的練習曲》  を弾こうと決意したのである。 ・「数学の場合だと、紙に三角形を書いて、これが本当の  三角形だっていう人はいないよね。でも、音楽の場  合、演奏されたものの方が本物の音楽だってことに  なぜかなる。それは変でしょ。演奏する人の個性といえ  ば、聞こえはいいけれど、要するに、癖だとか勝手な思い込  みだとか、そういうもので音楽は汚されてしまう。演  奏されたものが不完全、なんていうのはまだ優しいいい  方で、つまり演奏は音楽を滅茶苦茶に破壊し、台  無しにする。その滅茶苦茶になった残骸を、僕  らはずっと音楽と呼んできたんだ」 ・誰でもよい。誰かある人物を私が知っているとは、  いったいどんな事柄を指すのだろうか? つまり、いまこ  こにいない人は、死者であれ生きている人であれ、  私によって思い描かれる像である。そしてほとん  どすべての他人がいまここにいない以上、彼らは  像の無積であるほかない。 ・「音楽」はもう在るのだ。水床の底の蒼い氷の結晶  のように。暗黒の宇宙に散り輝く光の渦のよ  うに。動かし難い形で存在しているそれは、私の演  奏くらいで駄目になるものではない。私はミスをす  るだろう。技術が足りないところも多々あるだろ  う。だが、それがなんだというのだ。私はただひたす  らに「音楽」を信じ、余計事を考えずに光の結晶  であるところの「音楽」に向かって進んでいけばいい  のだ。「音楽」に半歩でも近づけるように。 ・空気中の音の速さは気温に比例する ・オーケストラは演奏前に440[Hz]の音叉に「ラ」の音を  合わせることが多い。楽器間のわずかな音程の  違いを聞き分けるのは容易ではないが、音叉との  うなりの有無を聞き分けている。 ・ある音に対して、波形の正負が逆になった(逆  位相の)音を瞬時に作り出せば音が干渉し  て聞こえなくなる。この原理を使ったノイズキャ  ンセラーはオーディオプレイヤーのイヤホンなどに応  用されている。 ・今はダウンロードという形で音楽を聴くことがものす  ごく増えています。それも確かに音楽の新たな  流布の形態だとは思うんですが、「携帯で着信  メロディで聴くのが音楽といえるのか?」という気持  ちが僕の中にはあります。 ・僕は、だからこそ歌に何が必要なのかを考えることが大  事だと思うんです。音程もリズムも修正されて人工  的なデジタルデータとして加工されたものが、はたし  て音楽としていいものなのか。それは違うでしょうと  僕は言いたいんですよ。 ・その定理をテストするには、なんらかの物理的プ  ロセスを選択することも必要ね――コンピュータを  使うとか、ペンと紙を使うとか、それとも、ただ  目を閉じて神経伝達物質をまぜこぜにする  とか。物理的なできごとに依存しない証  明なんてものはないの。そのできごとがあなた  の頭の内側にあろうが外側にあろうが、  少しもリアルでなくなるわけじゃない ・「フェルマーの定理が真か偽かによってふるまいを左  右された最初の物理的系は、アンドリュー・ワイルズ  の脳……と体とメモ用紙が構成するそれか  もしれない。だけどわたしは人間の行動がな  にか特別な役割を果たしたとは思わないの。  それより、もし百五十億年前に、クォークの一郡  が同じことを無計画にやったのだとしたら――ある  純粋にランダムな相互作用をおこない、それが  たまたまなんらかのかたちで仮設をテストする結果  になっていたのなら――フェルマーの最終定理を構  築したのは、ワイルズのはるか以前のそのクォーク  の一郡かもしれない。人間には知りようのない  ことだけど」 ・覗き 軽犯罪法第一条二十三号 ・愛、怒り、嫉妬、恨み、悲嘆、そのすべては外部  の状況と観察可能な行動というかたちで定  義される。イメージやメタファーがほんものらしく感  じられたときにも、それであきらかになるのは、一  連の定義や、文化的に拘束された語連想  のリストを、自分が作者と共有しているということ  にすぎない。 ・「こんなふうに考えてください、ものすごくたくさんの独  楽(こま)を可能なかぎり勢いよく回転させて、そ  の回転が遅くなって倒れるまで、その音に注意  深く耳を傾けるようなものだと。体内の原子に  関しては、それでじゅうぶんに、どんな種類の分子、  あるいはどんな種類の組織に属しているかの  手がかりが得られます。この器械は、何十億もの  微いなアンテナからの信号の組みあわせかたを  変えることで、異なる場所の原子に耳を傾ける  んです。いわば、異なる場所から信号が届くの  にかかる時間を操作して、毎秒数千回、体  内のどこにでも焦点を移動させることのできる、  ささやきの回廊というところでしょうか」 ・ちっぽけなコンピュータプログラムが“それ自身は”  唯一かつ単独だと思っているのに、じつはやはり  相手の存在に気がついていないもうひとつのバー  ジョンがすぐ横でずっと処理を実行している、  というイメージは、光子の干渉実験よりもはる  かに心に響くものがあった。 ・鍵盤にそっと指を置く。  右足は軽くペダルに乗せる。  深呼吸を一つしてから指を走らせ始める。  低音から始まる序奏。そして和音からしなやかな  三度の重音に移った時、早速鬼塚先生の  叱責が飛んだ。  「はい! その、指が転んだ」  言われなくても分かってるわよ、そんなこと――あたし  は胸の裡(うち)で舌打ちする。最初くらい気持  ちよく始めさせてくれたっていいじゃない。  「指丸めて! ちゃんと立てる!」  「遅い! そこ、もっと速く」  「クレッシェンド!」  一小節毎(ごと)に突き刺さる声にあたしの指はま  すますからめ捕られて自由を失う。指の一本一本が  言葉の針で刺されているようだ。本来なら華麗で  力強いはずの曲があっという間に無様でへな  へなした雑音へ堕ちていく。 ・序奏から踊るような旋律が続き、聴く者  を浮き立たせる。でも、挽く側にしてみれ  ばこの曲は難曲そのもので、和音を構成する  音符は鍵盤の範囲が広くて手の小さい  弾き手には不利だし、連続する左手のオク  ターブは親指をひどく酷使する。 ・接合面が完全に癒着しない限り感染する危険  性があり、絶えず薬品で洗浄しなくてはいけ  ない。洗浄時はもちろん痛い。傷口は薬剤  が染み入る痛みがあり、その度に接合面の多  さを思い知らされる。その痛みを抑えるために  鎮静剤を投与される。名前は自然に覚えた。  ペンタゾシンだ。また洗浄時でなくても皮下か  ら疼くような痛みが慢性的に沸き上がって  くる。痛みの度合いは皮膚の厚さによって異な  るため、あたしは皮膚の厚い部位と薄い部位  を身体で教わった。そしてその痛みを抑えるために、  この時もやはりフェンタンルという鎮静剤を投  与される。それに感染対策として定期的に抗  生物質も投与される。つまりは一日中薬漬け  になっているわけで、当然副作用がある。 ・しかし、事前に説明しましたが特待生資格は  三年間不変のものではありません。特待生に  も三つのランクがあり、これは本人の成績、または  学外での褒賞により上下するシステムになって  います。 ・まともに打鍵できない。鍵盤が途轍もなく  重い。鍵盤の下に何かが詰めてあるみたいだ。  懸命に打ち下ろしたはずなのにハンマーは弱々しく  弦を撫でるようにしか叩けない。運指は更に  悲惨だった。見えない糸に拘束されたように指  が思い通りに開かない。目的の鍵盤に届かな  い。何度も一つ手前の鍵盤にミスタッチする。  届いたとしてもその端で力が尽きてしまい、打  鍵は更に弱まる。運指ができないから当たり  前にリズムハメチャクチャだ。それは曲なんて呼  べる代物じゃなかった。雑音ですらない。只の迷  惑騒音だった。 ・ピアニストになるということは、ただピアノを弾いて  いて楽しいなんてことじゃない。ピアノ弾きとピアニ  ストという言葉があって、この二つは似ているけど全  く違うものだ。ピアノ弾きは譜面通りにただ鍵  盤を叩くだけ。しかしピアニストは作曲家の精神を  受け継ぎ、演奏に自らの生命を吹き込む。も  ちろん、そのためには血の滲むような努力が必要だ。 ・「最初にポジション、立ち位置を決める。全てはそこか  ら始まる。さあ、座った座った」  言われるままにあたしはピアノの前に腰を下ろす。  「座ったら両手を伸ばして鍵盤に指を置いて……  うん。やっぱり高いな」  「え。でもこれ、さっき調整したばかり……」  「でも高い」  有無を言わさぬ口調でそのまま調整ハンドル  を回す。視線が五センチほど下がった。  ――えっ?  「どうだい?」  どうだいって――それはまるで魔法だった。今  まで両腕に掛かっていた首と上半身の重さが  嘘のようにすっと抜けた。試しに指を動かして  みてまた驚いた。腕が軽くなったために指がさっき  よりも自由に動く! 肩から指先までの皮膚が突っ張る  せいで、その違いが余計に実感できる。 ・「みんな、よく勘違いするんだよ。鍵盤をしっかり打  とうとするあまり、つい指先に体重が掛かるよう座  席を高くしてしまう。でも鍵盤の重さなんてたか  だか七〇グラムだ。そんな指圧みたいな力は  要らない。座る位置を低くすれば自然に背筋  は垂直になり、腕にかかる体重は減少する。  指先に力を込めるよりは筋肉を伸ばして戒め  から解き放ってやることを考える方が大切なんだ」 ・鍵盤をしっかり打つというのは日本のピアノ教育者にしてみ  れば強迫観念に近いものなんだよ。曲げた指  先を高く持ち上げて垂直に鍵盤を打つ。ハ  イフィンガー奏法というのだけれど、そもそもは十九  世紀後半にヨーロッパでホール用ピアノが開発さ  れた際、その重い鍵盤に対して考案された奏  法だったんだ。確かに利点もある。手首を固定  させて指を上下させるだけなのだから、音色に頓挫しな  ければ短期間のうちにノーミスで弾けるようにな  る。しかし、硬く突き刺すような鋭い音はばらば  らになり易く、レガートの流れるような連結ができな  い。ところが丁度その頃に日本がピアノを輸入  したものだから、以来この国では強い打鍵が  ピアノ教育の常識になってしまった。 ・第一小節から荒々しい旋律が疾走を始めた。  躍動するというよりも暴れ回っている調  子だ。弦が千切れそうな打鍵。打つというよ  りは叩き付けている。カメラが背後から捉え  ると岬さんの上半身は上下左右に大きく揺れ  ている。まるでピアノを格闘しているかのように  見える。次にステージを俯瞰(ふかん)するカメ  ラが両手を捉える。両手は鍵盤の上を  目まぐるしく移動し、指先の動きは残像  を残すだけで目にも留まらない。幾度も交差  する腕、駆け巡る指と指。旋律は繰り  返し駆け上がり、低く旋回する。 ・中盤に入って曲調は優雅に転調するが、指  の動きは少しも緩まない。 ・終盤に差し掛かると、再び強烈な和音が荒  れ狂いだす。曲に秘められた情熱が突き  刺すような音と共に噴出する。勇壮にして圧  倒的なリズム――。 ・嵐のような旋律が遂に終息を迎える。一旦、  消え入るように声を潜めたかと思うと、いきなり立ち  上がってそのまま疾駆し、聴く者の胸に楔(くさび)  を打ち込んで、そして――終わった。 ・魔法使いは奇蹟を披露し、そして悪魔は  人の心を操り誘惑する。  以前、岬さんを魔法使いや悪魔に喩えた  ことがあったけど間違いだった。  喩えではなかった。  ピアノに関する限り、彼は本物の魔法使いでし  かも悪魔だった。 ・「さあ。今日は鍵盤の叩き方から始めましょうか」  演奏姿勢から始まったレッスンは、まだチェルニー  にも至らないが、それでも指の具合を考えれば決  して遅過ぎることはない。むしろ岬さんから改め  て教えて貰う初歩は新鮮で、理屈もあたしに理  解できるほど要領を得ていたので退屈することは  なかった。  「まず、鍵盤の上に指を置いてごらん。そっと置くだ  けだよ。力を入れる必要はない」  言われた通り指を置く。退院当初に感じた違  和感も今はすっかり払拭(ふっしょく)されている。  「ゆっくり、押す。すると指が何かを感じる」  ゆっくり、押す。指の腹に鍵盤の反動が伝わっ  てくる。  「次に三度、間隔を短くして叩く。その後に一  度叩いて指を押さえ続ける」  これも言われた通りにする。連続して三度。  飛び出した三つの音は途切れることなく宙空を  漂う。次に一度、鍵盤を叩きっ放しに  する。放たれた音は羽を持たないまま、余韻が  尾を引く前に千切れてしまった。音が――  死んでしまった。  「分かったかい? 鍵盤を打つのは太鼓を叩  くのと同じだ。太鼓の皮を叩く度にバチが  跳ね返り、それを続けることで皮も振動し  続ける。ピアノもそうだ。指をずっと押さえ続  けていたら音は潰れてしまう。潰さないために  は絶えず指を動かし続けることだ。指を、  太鼓を叩くバチのように意識する。しっかり打  つよりも連続させることを念頭に置く」 ・オマイよぉ、俺はキャバクラでモテる……とか  言ってるけど、そういうのはモテるって、言うんじゃあ  ないんだよ。  TVの自然ドキュメンタリー番組でアマゾン川を  渡河中の野豚がピラニアの大群に食い散らかされてる  映像を見たことがあるが、どう贔屓目に見ても  野豚がピアニアにモテているようには見えなかったぞ ・「さて、音が連続するとようやく演奏の基本要素  が構成されてくる。その基本要素は三つあって、  一つはリズム。二つ目が音、そして三つ目がスタイルだ。  リズムは作品の枠組みだから、とにかく正確で  あること。そして連続していても、それぞれの最後の  音が次の音とくっついちゃいけない。リズムが不鮮明  になるからだ。そのためには音が消えるまでの時  間を見積る必要がある。音が消えるまでの  時間はそのまま音節の広がりを見せることになる  のだから、ここでも強く弾き過ぎて広がりを見せな  いこおてゃマイナスにしかならない」 ・喋りながら、岬さんの指が鍵盤の上を滑る。説  明通りの動きが説明通りの音を奏でる。そ  れは、やっぱり魔法に見えた。滑らかに、そして軽  やかに跳ねる指。それに比べてあたしの指はま  るで芋虫の鈍重だ。鍵盤の上を這うようにしか  動かない。 ・「違う、違う、違う! それはお母さんや周りの人が望んで  いることで、あたしはこの指をとにかく自由に動かし  たいの! 目的や理由なんて、そんな難しいこと知ら  ない。でも、ピアノを弾きたいの! 岬さんみたいに凄  い曲、弾きたいの!」 ・「彼は難聴の作曲家だから偉人じゃない。あ  れだけの曲を作った人物だから称えられたん  だ。重要なのはその人物が何者かじゃない。何  を成し得たか、じゃないかな。第一、君は障害  があるかどうかで人間を二分しようとしているけど、  それは間違いだと僕は思う。人は誰もが欠  陥を持っている。ただその欠陥を修復するか、  または他の長所で補おうとする」 ・あたしはもう喋る気をなくしてピアノに向かった。現  状、このピアノはあたしにとって楽器ではなく、リハ  ビリ用具の一つだ。軋(きし)もうが金切り声を上  げようが動かすしかない。岬さんはただ黙って指  の動きを見つめていた。 ・「パパ。なんでローマ人は石で人をおそったの?」  「銃がなかったからだ」 ・退院当初は二小節もまともに弾けなかったブ  ルグミュラーの〈アラベスク〉。それを工藤先生の  見守る前で曲りなりにも演奏できた時は、  誰よりもあたしが一番驚いた。目の前にいきな  りカボチャの馬車が現れても、これほど驚きは  しないだろう。無論、完璧というわけではなく二  度のミスタッチと終盤のリズムの乱れが悔やまれ  たが、それでも最後の一音まで弾ききった時に  は夢見心地だった。まだ指の突っ張り感は残  っていたし、三分も演奏していると指の力がなく  なってくるが、ちゃんと指が言うことを聞いてくれ  る。左手が和音をしっかりと掴んでくれる。他の  生徒と比べても出来にそれほど遜色はな  かったのだ。 ・不必要な体重が掛からない理論的な姿勢…  …力に頼らない連続した動き、指先に力を入  れるよりも筋肉を伸ばすことを考える……ふむ。  それは効果的なリハビリの基本概念でもある。  偶然の一致かも知れんが、もしそれを知った上で  教えたのなら、その岬っていう男は只者じゃないな。 ・「病気に怪我、内科医だろうが外科医だろ  うが精神科医だろうが、人の不幸で飯を食う  んだからどっちにしたってヤクザな商売だ。それで  も患者が治れば嬉しいし、君のように変わってく  れれば自分のしたことに意味を見出せる。自分のした  ことで患者の運命を変えることができるのなら  誇りも持てる」 ・「さて、暗譜は完璧にできたようだね。じゃあ、今  日は実技の前にちょっとした講義をしてみよう。  ピアノ演奏におけるソフトウェアとハードウェアって、解  るかな? たとえばCDはソフトウェアだし、CDプレ  ーヤーはハードウェアだよね。実は楽器の演奏  も同じで、この場合ソフトウェアは楽譜、ハードウ  ェアは演奏者ということになる。つまりCDに刻ま  れた情報をプレーヤーが読み取って電気信  号に変換するのと同様、演奏者は楽譜に  記された作曲者の指示と意図を読み取っ  て音に変換していくわけだ」 ・「指使いも、ですか?」  「ああ、同じ音が出るのなら指定通りの複雑な  指使いでなくてもいいんじゃないかという意味だ  ね。うん、確かにそれは合理的な考え方だ。でも  ね、作曲家が敢(あ)えて複雑な指使いを指  定している理由はなぜだと思う? それは音  程というものが指先だけで作れるものじゃない  からだ。指先に触れる鍵盤の感触、演奏時の  腕の振り、手首と肩に伝わる振動、そして実際  に鳴り響く音、そういうものが身体の中で共鳴  し形になったものが音程だ。優れた曲であ  ればあるほど作曲家の意図は当然指使いにも反  映しているのだから、演奏者をその指使いを再  現しなければ意味がない」